2007年09月15日

TIP-OFF (14)

ちょうどサム・ブーイの章にさしかかったところで、グレッグ・オデンがシーズンを全休するかもしれないというニュース。残念ですね〜まだ19歳だし、今後のキャリアに影響がないことを祈ります。

さて、こちらはブーイの章etc... を省かせていただき、いっきにオリンピック・トライアルへ。(^^;
マイケル以外の人について読みたくないわけじゃないんだけど、今のところはギブです…。
マイケルじゃないと本当に集中力が続かないので〜。(英語を読むのは気力!(笑))

第3章:The Achilles Shin (サム・ブーイ)
第4章:Out of Africa, into Texas (オラジュワン)
第5章:The Well-Rounded Recruit (バークリー)
第6章:Spokane Man (ストックトン)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第7章:Trial by Knight - 1


84年当時のボビー・ナイトコーチは、粗野で、熱気に満ち満ちていた。彼を五輪代表チームの監督に起用する考えは、他国に対する外交的な侮辱にもなりかねず、多くの点で物議をかもす選択に違いなかった。NCAAで2度の優勝歴を誇る名コーチでありながら、ナイトはカウボーイ以上に荒っぽい。1979年には、パンアメリカン・ゲームのために訪れたプエルトリコのサンファンで、うかつにも練習用ジムの入り口に立ちはだかった警官ともみ合いになり、加重暴行罪で有罪判決を受けている。本人は裁判に出廷せぬまま、懲役6ヶ月罰金500ドルの判決を下され、米国本土の聖域へ逃げ帰って、プエルトリコ準州も身柄の引渡しは求めなかった。さらに、1981年には、ニュージャージー州チェリー・ヒルのカクテル・ラウンジで、ルイジアナ州立大学のブースターと口論になり、ちょっとした乱闘に巻き込まれている。

ナイトにはトラブルがついて回った。長く、しばしば過激なキャリアに渡って、コートに椅子を投げつけたり、自分の選手を窒息させたり、レイプを軽んじたり、タフネスぶりの実証として牛追いムチを振るうことで有名になった。しかし、当時の米国オリンピック委員たちは、速やかに代表チームを形成するには彼が最も適任だと知っていた。ナイト本人も、この仕事を極めて真剣に引き受けている。プレイヤーのスカウトに数年かけ、スタッフとして22名のアシスタント−−うちの1人はナイトの師でもあり、1960年のローマ五輪で大成功を収めたピート・ニューウェル−−を集めた。ナイトにはケミストリーを生み出す才覚があり、彼がにらみをきかせているだけで、規律と敬意が要求されるのだった。

当時の米国は、まだ誰もが認めるバスケットボールの世界チャンピオンだった−−たとえ低下の兆候がすでに表れていたとしても。米国アマチュアチームは、1972年のミュンヘン五輪決勝でソビエトに敗れ、その後、1982年に全米を転戦したソ連チームは、カレッジのトップチームを相手に7勝1敗の好成績を収めている。米国が1980年のモスクワ五輪をボイコットした報復として、ソ連は1984年のロサンゼルス五輪を欠場しそうだった。ナイトが代表チームを組織し始めた頃にはまだ明らかになっていなかったが、結局、冷戦対決は起こらない。ナイト本人は、ソ連もユーゴスラビアも出場し、スペインや西ドイツやイタリアより強敵になると警戒していたのだが。やがてすぐ、多くの国々が国際試合で米国にとって困難な敵になるが、ロス五輪ではまだ、アスレティックで洗練された米国と本当に戦う用意ができている国はなかった。NBAの『ドリームチーム』が必要だという議論は全くなく、ナイト率いる18名のコーチや委員が選んだカレッジのスターは素晴らしかった。

ナイトは慎重にスタッフと側近を選んでいた。アシスタントコーチは、デイトン大学のドン・ドノハーとアイオワ大学のジョージ・ラベリング、バンダービルト大学のC・M・ニュートン。ナイトが最も頼りにするコーチたちだ。
代表選考プロセスが始まるとき、ナイトは「個人の能力に加え、我々が求めるプレーとどのように適合するか、ということで選考を行うつもりだ」と、ニューヨーク・タイムズに語っている。「私に最終決定権があるかどうかは承知していないが、発言権はあるはずだ。それがトップなのか、しんがりなのか、中程度なのかは知らんが」



posted by まき at 19:45| Comment(0) | TrackBack(1) | TIP-OFF | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。