2008年02月10日

TIP-OFF (39)

マーカスの高校は、全米No.1高校生という評価も多い6フィート10インチの4年生(ジョージタウンへ進学)がいるLAの高校に58対62で負けてしまいました。
一昨日も「マイケル・ジョーダンが来るかどうかまだ不明」と記事にしていた地元紙が何も書いていないところを見ると、お父さんは行かなかったのかな。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第11章:The Safe Pick - 3

マーベリックスは繊細なバランスで統治されていた。プレジデントのソンジュは、熱心なクリスチャンで、洗練された身なりの実業家だった。少々堅苦しいところはあったが、多くのチームに欠けている高度な経済基盤をセットした指導者だということは誰も否定できなかった。インディアナやユタのようなフランチャイズの経営陣は、ちょくちょくマブスを訪問し、ソンジュに教えを請うたほどだ。「私は創設者で社長でGMだったが、バスケットボールのことは現場に任せていたよ」と、ソンジュは言う。

モッタは、アウトドア好きで、洗練とはほど遠く、リーグ周辺でほとんど友人を作らないアウトサイダー的性格のコーチだった。社交性がなく、言いたいことを口に出し、自分で物事を決めたがった。1997年に935勝(1017敗)という成績を残して引退したが、1971年にコーチ・オブ・ジ・イヤーを受賞し、1978年には優勝も成し遂げていながら、バスケットボール殿堂に選ばれることはなかった。彼の家族は、有権者(マスコミやバスケットボール関係者)とのしばしば好戦的な関係がもたらした結果だと信じている。

時には対立することもある非常に異なる2人の個性の持ち主の緩衝役になったのは、人事担当責任者のリック・サンドだった。サンドは、ミルウォーキー時代に有名な革新者ドン・ネルソンの下で学んだあと、28歳でダラスに雇われた。ネルソンは一般通念を受け入れず、常にとっぴなアイソレーション・プレーを試していた。そのネルソンと同じく、サンドも独創的な考えを持ち、人事決定では思いがけないほどの成功を収めた。

ダラスの組織内に問題が起こったとき、最も頼りになるのはサンドであり、常にスタッフから愛される存在でもあった。サンドには才能を見抜く素晴らしい眼があり、ブラックマンやアグワイア、ジェイ・ヴィンセント、そして、1985年には西ドイツのスター、デトレフ・シュレンプをドラフトし、自らの力を実証した。ただ1つ論じうるサンドの欠点を挙げるなら、それは、バスケットボールの決定に関してモッタの意見に従う傾向があるところだった。3人の中で才能を見る目はサンドが1番だった。チームに近い人々は、モッタが他のリーグ関係者やコーチたちの意見に左右されすぎると思っていた。理論的には、ドラフトはサンドの仕事だったが、彼は常に、ヘッドコーチに望まれないドラフトは意味がないと感じていた。自分がそのような選手を指名しても、モッタがプレーさせなければ終わりだからだ。しかし、多少の摩擦はあっても、ダラスは地元に溶け込んで成長し、非常に良いチームになっていた。

マーベリックスにはクリーブランドの1巡目指名権があったため、モッタはクリーブランドの順位がコインフリップに必要な位置まで落ちることを期待していた。彼はずっと、オラジュワンのような偉大なビッグマンと働きたいと思っていたのだ。ところがそこで、ロケッツがひどい惨状に陥り、クリーブランドより悪い成績で終わった。モッタはそれを八百長だと憤った。テレビのリプレーでベンチに座って笑っているラルフ・サンプソンが映るたび、モッタはかんかんに怒った。彼は、ビル・フィッチとロケッツが最下位か最後から2番目を目標にプレーしていると骨の髄まで信じていた。ダラスの他の経営陣やリーグ関係者の多くも同じ意見だった。だから、マーベリックスは自分たちがジョーダンを2度騙し取られたと感じたのだ:1度目はステピエンを追放したスターンによって。もう1度は、疑わしいほどエルビン・ヘイズをプレーさせたフィッチによって。



posted by まき at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | TIP-OFF | 更新情報をチェックする
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