2008年10月08日

TIP-OFF (79)

この章は次くらいで終わり、あとは第18章(サム・パーキンス)、第19章(チャールズ・バークリー)、第20章(ジョン・ストックトン)、エピローグと続くのですが、どーもそろそろMJのこと以外は根気が続かなくなってきたので、たぶん第17章で終わらせていただきます。m(__)m
でもって、念願のBlood on the Hornsを訳せたらいいんだけど〜。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 6


上げ潮はすべてのボートを持ち上げる、と諺に言う。ジョーダンはまさに、ブルズのためにそうしたが、ルーキーシーズンの旅の道連れを救うのは間に合わなかった。彼らは全員、この素晴らしい冒険から置いていかれるだろう。1985年3月に、シカゴ・ホワイトソックスのオーナーであるジェリー・ラインズドーフがワーツ家からブルズを購入し、すぐさま人員整理を始めたとき、ジョーダンのリーグ1年目はまだ終わってさえいない。最初はコブラーだった。ソーンはラインズドーフとの長い会談に呼ばれ、簡単に言ってしまえば、70年代と80年代の一連の失敗に対して責任があったかどうかただされた。ラインズドーフはソーンに、すべてをコブラーのせいにするチャンスを与えた。ただ、自分の両手は縛られていたと言いさえすれば。ソーンは無罪の主張を拒否した。第一、それは真実ではなかった。「私はさまざまな決定に大きく関与しました。責任があると見なされるべきです」と、彼は言った。コブラーが解雇された2週間後の1985年3月26日、ソーンもまた解雇され、ジェリー・クラウスが後任となった。ブルズがバックスとのプレイオフ・シリーズから敗退すると、今度はコーチの番だった。ロカリーはアシスタントコーチのビル・ブレアやフレッド・カーターと共に5月下旬に解雇された。「唯一の驚きは、それほど長く私のクビがもったということだね」と、ロカリーは言った。ソーンとロカリーは何十年も一緒に働き、ジュリアス・アーヴィングとマイケル・ジョーダンという2人のレジェンドのキャリア創成期を育てている。ソーンはのちに、ニュージャージー・ネッツのゼネラルマネージャーとして、さらに2人のスーパースターを手に入れた(ジェイソン・キッドとヴィンス・カーター)。彼は、非常に魅力的なプレイヤーを見出すより、チャンピオンシップを獲得する方が困難だということを知った。

当時のシカゴに話を戻せば、その後も完全な人事一新が続けられた。6年後、ブルズがついに初優勝を遂げたとき、1984−85シーズンのジョーダンのチームメイトは1人も残っていないだろう。クラウスは驚くべき能率でロスターを一掃した。スティーブ・ジョンソン、デイビッド・グリーンウッド、エニス・ワトリー、ウェス・マシューズは1985年の秋にいなくなった。かつてはチームのトップスコアラーだったクィンティン・デイリーとオーランド・ウーリッジは、ロッド・ヒギンスやシドニー・グリーンと共に1986年に去った。デイヴ・コージンは1989年まで残ったが、優勝には届かなかった。ジョーダンがブルズで過ごした14シーズンに、さまざまな選手が入れ替わり、結果として、6度の優勝が達成されたのだ。クラウスの最も重要な取引は、1985年にクリーブランドが指名したチャールズ・オークリーを獲得したこと、1987年のドラフト当日にオルデン・ポリニスをシアトルへ送り、やがてジョーダンの右腕となるスコッティ・ピペンと交換したこと、1987年にホーレス・グラントをドラフトしたこと、1989年にフィル・ジャクソンをヘッドコーチにしたこと、1995年にウィル・パデューとの交換でスパーズからデニス・ロッドマンを手に入れたこと、などがある。これらは、ジョーダンの卓越したキャリアに十分なサポートを与え、シクサーズやセルティックス、レイカーズやピストンズと戦い、追い越し、ロケッツやニックス、ジャズを撃退するために不可欠な動きとなった。ジョーダンは偉大さとチャンピオンシップ・チームの定義を変えるだろう。もはや、NBAタイトルは必ずしも巨大な身体によって得られるものではない。もはや、プレイヤーの稼ぎはチームからのサラリーに限られない。ここに自我の極致を超える個人主義の勝利があった。プレイヤーにとって良いことは、広く解釈すればチームのためにも良かった。

ジョーダンはブザービーターを決め続けたが、実に欠点も弱点もある普通の人間だった。かつてクレイジー・エイトでピーターソンの母親をだますことにもなった、苛烈でどん欲な競争心が、程なく本当のトラブルをもたらすことになる。ギャンブル・スキャンダルは彼の評判を傷つけた。伝えられるところでは、1991年10月から始まったゴルフの借りを清算するために、ジョーダンからノースカロライナの麻薬密売人スリム・ボウラーに当てた5万7000ドルの小切手があった。もう1人のゴルフ仲間であるリチャード・エスキナスは、ジョーダンが1991年9月のたった一度のゴルフでどうやって125万ドルもすったかという本を急きょ出版した。ジョーダン本人は、その数字をでたらめだと言ったが。彼は有名になり、どこへ行っても気づかれ、騒がれるようになった。それにもかかわらず、1992年のニックスとのプレイオフの合間に、父親とアトランティックシティーへ出かけ、早朝までブラックジャックに興じていたことが報道された。NBAは何一つ規則違反を発見しなかったが、ギャンブルはリーグ当局者の大きな懸念だった。そして最後に、ジョーダンを最大の悲劇が襲う。1993年7月、父親が2人のティーンエイジャーに強殺されたのだ。ジョーダンは打ちのめされた。父親の失踪と自分のギャンブル交友との関連を匂わせる誤報に激怒した。一連のスキャンダル以降、ジョーダンはメディアと距離を置き、試合後のコミュニケーションさえ制限して、最低限の接触しかしなくなり、妻のファニータと3人の子供たちもカメラから遠ざけた。



posted by まき at 20:59| Comment(2) | TrackBack(0) | TIP-OFF | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「NBAタイトルは必ずしも巨大な身体によって得られるものではない。もはや、プレイヤーの稼ぎはチームからのサラリーに限られない。」

この部分はまさにマイケルが証明してくれましたね。

3連覇時のセンターだったカートライトやロングリーらは確かに背は高かったですが、
力でゴール下に入っていってダンク、というというプレイヤーではなかったですし、
6フィート6インチという、決して大きいほうではないマイケルが中心となって6回も優勝したんですからね。

大きい選手にボールを集めてほとんどの得点が決まるより、小さい選手が得点を重ねて、
大きい選手越しにダンクを決める、まさにマイケルが魅せたバスケットだからこそ、
自分がこれだけのファンになったのだろうと思います。

私はバスケットボールが好きですが、自分の中では、バスケットボールのファンというより、
マイケル個人のファンで、マイケルが1番でバスケットボールが2番のような感じです。

ビジネスでの成功もマイケルだからこそ出来た事ですよね。
Posted by BE LIKE MIKE at 2008年10月08日 23:34
ハルバースタムの『ジョーダン』に、ロス五輪の代表監督だったボビー・ナイトが親しい友人であるブレイザーズのスチュー・インマンにジョーダンをドラフトするよう薦め、「うちはセンターがほしいんだ」と断られると、「ジョーダンをとってセンターをやらせろよ」と言った、というエピソードがありましたけど、マイケルは実際に、少なくともオフェンスではセンターをやってましたよね。
そう言えば、オラジュワンも「ブルズのセンターはジョーダン」と言ってましたし。

私も前から球技の中ではバスケットボールが1番好きでした。でも、普通に「大きいもの勝ち」じゃ面白くないのは万国共通みたいですね。(笑)
そして、今ではもちろん、マイケル>>>バスケットボールな感じです。
自分でも、もう引退して5年(というか実感としては10年)たつのに、いつまで続くんだろうと不思議ですが…。もともと、ただプレーに惹かれたというより、ボブ・グリーンの『マイケル・ジョーダン物語』でとどめを刺されたくちなので、プレーしていなくても関係ないのかもしれません。(^^;

Posted by まき at 2008年10月09日 20:47
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