2008年12月22日

2004年の記事

先日、シクサーズのモーリス・チークスHCが解任されたとき、ラリー・ブラウンさんは「彼に電話をした。(コーチが解雇されたら)全員に電話をするんだ」と言っていました。
で、Yahoo!ブリーフケースから発掘した2004年のブラウンHCの記事を思い出したので、今日は何もネタがないし、これでも載せておこうかな、と。

ついでに思ったんですけど、フィル・ジャクソンはコーチ同士の付き合いが話題になりませんね。やっぱり一匹狼な感じ。(確か"Maverick"という著書があったはず)

Newsday
NBA Finals
Man for all seasons
初優勝を目指しているラリー・ブラウンは、単に優れたコーチというだけではない:彼は教師、良き指導者、そして意欲を引き出す達人である。
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BY KEN BERGER
STAFF CORRESPONDENT

June 8, 2004
LOS ANGELES――去年の秋、あるゴルフコースで、ラリー・ブラウン&ジェリー・ウェスト対マイケル・ジョーダン&ロイ・ウィリアムスによるベストボールでの対決があった。

その日、コーチやバスケットボール関係者が出席したノースカロライナ州パインハーストでの屋外イベントで、彼らはベスト4のゴルファーだった。

「面白い話だよ」と、ディーン・スミスが電話で語る。「私たちはチームを応援していたんだがね」

スミスが言う“チーム”とは、ジョーダンとウィリアムス現UNCコーチのオール・ノースカロライナ組だと理解できる。

「あとでマイケルと会ったとき、『どうしたんだ?』と聞いてみた」と、スミスは言った。「そうしたら、マイケルは『シービスケットにやられちゃった』と言うんだ。『どういうことだい?』と尋ねると、『シービスケットが僕らをやっつけたんだ。ラリーがね』と言ったんだ」

日曜日のNBAファイナル第一戦で、デトロイト・ピストンズが圧倒的優位と目されるロサンゼルス・レイカーズに与えた衝撃的な勝利の余韻の中、ブラウンが持ち出したニックネームの発案者は、ジョーダンだったというわけだ。

そして、ジョーダンがラリー・ブラウンとシービスケットを同じカテゴリーにまとめるという事実こそ、ラリー・ブラウンについて知るために必要なことすべてを言い表わしている。

シービスケットは小柄で、足が曲がり、ひざにこぶのある、チャンピオンのハートを持つ馬だった――実際、1938年に行われたマッチレースで三冠馬ウォー・アドミラルを破り、大恐慌に苦しむ国民の希望となるのに十分なハートを。

2004年、レイカーズはブラウンにとってのウォー・アドミラルだ。これは、足の曲がった、ひざにこぶのある、チャンピオンのハートを持つ――だが、それを証明するNBAチャンピオンシップは持たない――63歳のコーチにとって決定的な瞬間であろう。

純粋主義者としてのコーチ

実のところ、“決定的な瞬間”は、ブラウンにとって強すぎる表現だと、彼を知り、彼を敬愛するバスケットボール界の人々は言う。それは、ブラウンを定義するものが彼の――NBAチャンピオンシップ・リングを欠くことさえ別にすれば傑出した――成績ではなく、コーチングへの愛情、コーチたちへの敬意、自分のために働く人々と選手たちをより良くしようとする飽くなき欲求であるからだ。

すべては、フラットブッシュ東28番街925、ブラウンと兄のハーブがスポーツに惚れ込み、亡くなった父親と一緒にブルックリン・ドジャースを応援した場所から始まった。やがて、ロングビーチに引っ越してパン屋の2階に住む兄弟は、数人のスペシャルな高校コーチの目を引き付けた。

それ以来ずっと、ラリー・ブラウンは動き続けてきた。ノースカロライナ大学でフランク・マクガイアとスミスのためにプレーし、1964年の五輪代表チームではヘンリー・イーバの下でプレーした。ABAで5シーズンだけプレーした後――そのうち3シーズンはオールスター選手だった――バスケットボールを教えて世界中を旅した。

「彼の経歴を良くチェックした方がいいよ。本当にどこででもそうしたのだから」と、UCLAでブラウンのアシスタントを務めたユタ・ジャズのケビン・オコーナーGMは言った。

彼は、選手としてもアシスタントコーチとしてもオリンピックの金メダルを獲得しており、今夏にはアテネでヘッドコーチとして金メダルに挑もうとしている。1980年にUCLAを全米大学決勝戦へ導き、88年にはカンザスを率いてチャンピオンシップを勝ち取り、今は2度目のNBAファイナルで指揮を取っている。それなのに、他の人間が終わったと思うよりも早く自分の仕事を離れる性癖のために、彼は実績よりも放浪癖で知られるようになった。

「人々は、あちこちへ移り歩くと言うが、彼は決して金のために働いたり、金を理由に去ったことはないんだ」と、1980年代初期にカンザスでブラウンのために働いたのが最初の仕事だったメンフィス大のジョン・カリパリは言う。「私たちが『1200万ドルですって?行きましょう』と言う一方でね」

ブラウンは、2つの大学と8つのプロチームのヘッドコーチ職の中で、1997年から2003年までのフィラデルフィアでの6年間を除いて、一カ所に5年以上留まったことがない。去年の6月、ピストンズのコーチとして紹介された折に、ブラウンは「ここが私の最後の滞在地だ」と言った。

そして、今まで何度そう言ったか問われると、「いつも」と答えた。

バスケットボール関係者は、ブラウンの才能が荷造りと引っ越しを大きく超えることを認める。何しろ、彼はコーチができる。この日曜の夜ほど、その事実が明確になったことはない。レイカーズを威圧したピストンズのディフェンスは史上屈指の勲章に値した。

さらに、ブラウンのバスケットボール人生は、ゲームを尊敬し――「正しくプレーせよ」とガラガラ声で繰り返し何度も言うように――コーチ仲間と選手たちのキャリアの向上を手助けすることに捧げられてきた。

他人の世話 

1999年にネッツを解雇されたあとキャリアの苦境にあったカリパリは、解雇から数カ月後にブラウンが仕事口を工面してくれたことを思い返して笑顔になる。

「彼はこんなふうに切り出した…『ジョン、私はフィリーで本当に君を必要としている』」と、メンフィスで現在の職を得る前に、シクサーズで2年間ブラウンのアシスタントを務めたカリパリは言った。「彼に私が必要だったわけじゃない。彼には、私に手を貸し、私がキャリアを続けられるよう、すべてを正しくセットすることが必要だったんだ」

ブラウンは同じように、サンアントニオのアシスタントに雇うことで、1988年にグレッグ・ポポビッチをカリフォルニア州クレアモントのポーモーナ・ピッツァー大から救い上げた。その後、ポポビッチはスパーズを2度の優勝へ導く。

ジャズのオコーナーは一時、衣料業界で働き、パートでスカウトをするだけで、実質的に10年間スポーツ業界から遠ざかっていた。UCLAでオコーナーの上司だったブラウンは、フィラデルフィアのプレイヤー人事担当として彼を雇った。

先月、ブラウンはバイロン・スコットを解雇したやり方に対してネッツを厳しく批判し、物議をかもした。一部の人間は、インディアナでスコットをコーチしたブラウンが、ネッツのロッド・ソーンGMを攻撃したと考えたが、ブラウンはただコーチ仲間を擁護しただけなのだ。

「あれはバイロンのためだった」と、カリパリは言う。「彼がロッドを攻撃していたように受け取る人もいるが、実際はそうではない。彼は、バイロンにコーチができること、バイロンは好人物で、もっと高い評価に値する男だということを人々に知ってもらいたかったんだ」

事実、スコットは最近、ニューオーリンズ・ホーネッツのヘッドコーチに雇われた。

見事な実績

ブラウンが他人ヘの支援で広く尊敬される一方、チームや選手たちに期待以上の成果を上げさせるコーチとしての能力への称賛はまったく不十分だと、彼の信奉者たちは思っている。

「ラリーはリングを勝ち取っていない。けれども、彼のチームは常にプレーオフへ進み、成功してきた」と、ピストンズでアシスタントを務める兄のハーブは言う。「最高のプレイヤーなしに優勝するのは難しいよ」

「彼のコーチング能力の素晴らしさの1つは、彼のチームが常に、シーズンが進むにつれて向上するということだ」と、ターヒールズでのアシスタントとしてブラウンに最初の仕事を与えたスミスは言った。

他のコーチは対戦相手のテープを何時間も見るが、ブラウンはしばしば数分しか見ない。彼は自分のチームを分析し、指導することにより多くの時間を使う。

彼はまだ、カロライナでマクガイアとスミスから学んだプレーのいくつかを実行しているが、彼自身がアイコンとして尊敬されるオフシーズンのクリニックで大学のコーチたちから習得した新しい考えも同じように用いるだろう。

「彼はゲームの残り3分で本領を発揮する。接戦の、一進一退の場面で」と、カリパリは言う。「その状況下で心電図計をつないだら、きっと彼の心拍数は下がっているだろう。私などは、死ぬほど汗をかき、ネクタイの結び目まで汗に濡れる有様だが」

ブラウンのこの鎮静作用は、練習で全力を尽くすことを求める気難しい伝統主義者である彼に、NBAの中でも激しい気性のスター数人との共存を許すことになった――入り混ざった結果で。

ラシードはファン

アレン・アイバーソンとのフィラデルフィアでの6年間が、成功と見られるべきか失敗と見られるべきかで論争になろうとも、そのトレードがピストンズを本当の優勝候補へ変貌させた、激しやすく制御不能だったラシード・ウォレスとの現在のプロジェクトが、短期的に成功したことは疑う余地がない。

「パウンド・フォー・パウンド(等分に、同じように較べたら)」は、ウォレスが「見比べれば彼が現在最高のコーチ」という意味で選んだブラウンのニックネームである。

「クールなコーチだよ」と、ウォレスは言った。「僕の中では選手思いのコーチだ。クールだし、おおらかで、余計なことにわずらわされない人だね」

けれども、アイバーソンや他のスター選手との有名な衝突は、時として彼自身や彼らの離脱と結びつき、ブラウンは自分の頑固さにとらわれているという主張をあおった。

その一例:ラプターズのガード、ジェイレン・ローズは、インディアナでのブラウンとの1シーズンを「個人的には最低」と呼んだ。彼は今でも、ブラウンのペイサーズでの最後のシーズンだった1996−97に自分が長くベンチへ置かれたのは、ブラウンのお気に入りPGだったマーク・ジャクソンとの交換でチームに加わったせいだと信じている。

「そうだったことは分かってる」と、やがてはスターターになったローズは言った。「彼のことは尊敬しているよ。それは好き嫌いとは関係ない。だいたい、好きとか嫌いとか言えるほど彼のことを知らないしね。でも、彼のペイサーズでの仕事ぶり、このリーグでの仕事ぶりは尊敬する」

今週、ブラウンは、自分にとってチャンピオンシップが何を意味するかという議論を避けた。兄との話題に持ち出すことさえない――母親のアンとの会話にも。彼女はシャーロットの療養所でシリーズを見守っている。99歳で、息子たちによれば、ますます強くなっている。

「私はその一員になりたい」と、チャンピオンシップで勝つことについてブラウンは言った。「自分のためだけでなく、私のために犠牲を払ってくれた、私の選手とコーチたち全員のために」

NBAファイナルがどのような結果に終わろうと、この夏のクリニックには、国中のコーチが、教師に学ぶことを願ってブラウンの下へ集まるだろう。

今はただ、友人たち全員が見守っている。シービスケットが勝つかどうか確かめたくて。

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