2006年12月03日

超感覚

昨夜、テレビ朝日の番組を見て、『DRIVEN FROM WITHIN』のエピソードを思い出したので。(しかし、大雑把な意味が分かるのと日本語化するのとでは、今さらながら雲泥の差だった…何かこれ、観念的だから難しい!)

「人体は究極のセンサーだ」 <こういうのを知ると、一流アスリートには凡人と違うものが見えていても当然のように思いますね〜。

◆ハワード“H”ホワイト (ナイキでの初めての友人 by MJ)

どの宗教を考えても、神は私たちの内に存在するということが理念の核心である。人がオレンジを手に取るとき、そこにあるのはただの球体、丸い果実だ。しかし、その皮をむけば、食べる物、自分を養えるものを持つことになる。さらに、その内側には、永久に食べ続けられるように蒔くための種がある。それは本質的に、自分が何者であるかということだが、外観にばかり気を取られる私たちは、めったに種まで到達しない。

世界を明るくできるそれらの種まで到達する人は少ない。MJは、他の人間が彼について語ったよりももっと、自分自身を見ていた。さて、これは興味深い部分だ。彼は自分を見ることができるようになった。真の瞑想術とは、すべての言葉、行動、事象を越えて物事を見晴らし、さらに、自分自身をも背後から観察できるようになることだ。責務は、担える人々にとって巨大である。マイケルは人々の期待に応えるプレーをしただけでなく、その期待すら超えていた。素晴らしい競技であるためには、相手の選手にも、最高のプレーをしなければならないという考えが必要である。マイケル・ジョーダンがテーブルにもたらしたものは、誰でも理解していた。さらに、マイケルはいつも、あらゆるものをもたらしていた。相手は、すべての瞬間に自分の最高の力を発揮する必要があると知るとき、たいていつまずく。特に、ただその瞬間の自分を表現しているだけの人間を相手に、そうやってプレーすることは不自然だ。マイケルは何も考える必要がなかった。彼のプレーは、自分が誰かということだった。

それは、最も純粋な形の自己表現だった。それで、マイケルが何かを起こし始めると、他の選手は、自分ももっと一所懸命やらなければ、と考える。マイケルはマイケルだった。もっと懸命にプレーすることや自分のゲームを高めることを考える必要がなかった。

1989年のプレイオフ、シカゴでクリーブランドと対戦した試合を思い出す。ブルズにはホームでシリーズを終わらせるチャンスがあったのだが、マイケルはフリースローを失敗した。それも1度ならず。あの日、彼はかつてないほど、フリースローを決められなかった。

そして、シリーズは最終第5戦のためにクリーブランドへ戻る。私たちと一緒にホテルの部屋にいたマイケルは、「映画を見よう」と言った。友人たちは黒いままのテレビ画面に映像が現れるのを待っていた。マイケルは、その何も映っていないテレビを凝視していた。とうとう私が、「おい、大丈夫か?どうした?」と声をかけなければならないほど。彼は真っ黒な画面にゲームを見ていたのだろうか?これから起こることを視覚化していたのだろうか?それは、彼がシリーズを勝ち取るシュートを決めた日だった。

すべては、起こることになっていたのだろうか?

――――

いくつかのことは、そうなるよう運命づけられている。僕は本当にそう信じている。
MJ


posted by まき at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | BOOKS | 更新情報をチェックする
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