2007年07月09日

私がファンになる前

1993.jpg昨日のコラムを読んで、今さらまた昔のマイケルが理不尽に責められていたことを思い出し…と言っても、私は95年3月からのファンなので、引退前にあったことはサム・スミスやボブ・グリーンの本などでおいおい知ったわけですけど。
その中でも、週刊文春に連載されていた青木富貴子さんの『USA通信』90年〜94年分をまとめた本、『ジャーナリスティック・アメリカ』は、軽くショックでした。
今思っても、ダブルスタンダードもいいとこだよなぁ。
いや、それをいえば今だってそうだし、ダブルスタンダードで測られることこそ別格の証なんでしょうけど。

てことで、臨場感溢れる93年当時のコラムなどいかがですか。(完全に著作権法違反なので、こっそり『続き』でどーぞ。(^^;)
私は当時のニックスに何の恨みもありませんが、こういうことを前提にして93年のカンファレンス・ファイナルを第1戦から第6戦まで通しで見るのが好きです。ニックスにではなく、ニューヨークのメディアに対して快感!(笑)

マイケル・ジョーダンの翳り始めた英雄像
1993・7・1

 「黒人で、貧しく、父なし子であることは、死の宣告ではない。三重苦を背負っていても、バークリーのように英雄になれるのだ」
 スポーツ・コラムニストのマイク・ルピカは、NBAフェニックス・サンズのチャールズ・バークリーを評してこう書いている。
 ニューヨークでもこのところすっかりバークリーに人気が集まっているのは、ニューヨーカーが判官贔屓のせいばかりではない。地元ニューヨーク・ニックスを負かしたシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンに愛想を尽かしたからである。
 NBAファイナル5試合目のその晩、世界貿易センタービルから6、7ブロック北にあるトライベッカ地区のスポーツ・バー、スポーティング・クラブでは、超満員の客が大歓声を上げながらフェニックス・サンズを応援していた。バークリーが得点するたびに、ビール瓶を振りかざして大騒ぎになる。
 マイケル・ジョーダンが身を翻すようなダンクを決めても拍手は少なく、「ギャンブルなんかする選手はスポーツマンじゃないよ」と隣の黒人青年が呟いていた。テレビのコマーシャルソングをもじって「マイケルのようにギャンブルできたら」という歌まで飛び出す始末である。
 マイケル・ジョーダンの博打好きはかねてから知られるところだったが、今シーズン、再び彼の賭博問題が浮上したのは、ニューヨークでの対ニックス戦のときだった。ジョーダンが第2試合前夜、アトランティック・シティで深夜2時半までギャンブルに興じていたと報道されたのである。デイリー・ニューズ紙は大一面で大きくこう書き立てていた。
「ギャンブルで大負けのエア・ジョーダン」
 
 マイケル・ジョーダンはかつてベーブ・ルースが野球を米国最大の人気スポーツに祭り上げたように、NBAをいまや野球より人気の高いスポーツに広めた。ジョーダンはモハメッド・アリ以来最大のアメリカン・ヒーローになり、4000万ドルと推定される年俸も、これまでのどの選手に比べても遥かに群を抜いている。
 私のバスケット観を大いに変えてくれたのもジョーダンだった。中学から大学まで10年というもの、学業を怠りながらひたすらバスケットに専念してきたわたしは、東京オリンピックを含め、当時、日本で見られる大きな試合はほとんど観戦してきた。しかし、8年前、ニューヨークに移り住んでから、初めてテレビで見たジョーダンのプレーは衝撃的だった。それはまるで、ヘリコプターを駆使したベトナム戦争と、スカッド・ミサイルを使った湾岸戦争の違いを見せつけられたようなものだった。
 2年前、弱小チームだったシカゴ・ブルズを率いてNBAで初優勝した時のジョーダンは、優勝カップを抱きしめながらさめざめと涙を流していた。NBA選手になってから7年目、汗にまみれた闘士の涙ほど、見ていて気持ちの良いものはなかった。2年連続NBA制覇の栄冠を勝ち取った昨年も、ジョーダンは覇者には似つかわしくないほどの真摯な喜びを表現していた。
 
 それが、今シーズンになって、どうも何かが違ってきたのである。ジョーダンはピークを越えてしまったのかと、わたしには思えた。彼のプレイには精彩がなく、勝ちたいという強い意欲に欠けているように見えたのである。
 一方、地元ニューヨークでは、名監督パット・ライリーを迎えたニックスが善戦し、イースタン・カンファレンスでの勝ち試合の合計数でシカゴ・ブルズを上回った。セミ・ファイナルのブルズ対ニックス戦が、1986年に野球のニューヨーク・メッツが優勝した年と同じくらい盛り上がったのは当然だった。
 しかもニックスは、マディソン・スクエア・ガーデンでの初めの2試合で見事にブルズを負かした。ジョーダンの賭博問題が報道されたのはその翌朝だった。
 デイリー・ニューズ紙によると、ジョーダンはアトランティック・シティのバリーズ・グランド・カジノでブラックジャックに興じ、5000ドルほど負けたという。アトランティック・シティはニューヨーク市から車で2時間の距離にある。ジョーダンが深夜2時半までギャンブルに興じていたとしたら、マンハッタンのホテルに戻ったのが早朝の4時半、昼過ぎまで仮眠を取ったとしても、ニックス戦で見せたあの精彩のなさが納得できる。

 ジョーダンは、賭けゴルフをしていることは前から認めていたが、賭けゴルフで負けた10万7000ドルと5万7000ドルの小切手が、ここで改めて問題になった。麻薬密売で起訴されたいかがわしい人物に支払っていたというのである。さらに、同じ賭けゴルフでサンディエゴのビジネスマンに125万ドルも負け、両者の話し合いで30万ドル支払ったという。
 丁度この時、サンディエゴのビジネスマンが『マイケルとわたし ぼくらのギャンブル中毒』という本を出したものだから、この騒ぎに拍車をかけることになった。数日後、ついにテレビ・インタビューに答えたジョーダンはこう語った。
「ぼくはギャンブル中毒などではない。ぼくはギャンブルが好きだけれど、これは単なる趣味なんだ。アトランティック・シティでの博打は合法的なものだし、賭けゴルフだってそうさ。それをまるで犯罪人のように書き立てるのだから、こんなに不公平なことはない」
 このときのジョーダンはグレーのスーツに身を固め、黒いサングラスで目を隠していた。私生活には口を出すなと言った不遜な態度で開き直り、かえって悪いイメージを振り撒いていた。

 ジョーダンの賭博問題がこれほど大騒ぎになったのは、彼が優等生ともいえるほど非の打ちどころのない英雄像を持っていたからである。試合中いつも「F×××」の四文字を連発し、街角で暴行事件を起こすなど素行の悪さで有名な問題児バークリーに比べると、中流階級出身のジョーダンは貴公子然とした風采をもっていた。
 だからこそ、その英雄像に少しでもヒビが入ったのを知ったアメリカ人は、ピューリタン的正義感を奮い起こしたのである。正義が侵されると思うと突然燃え上がるあの潔癖さである。彼らはまた、かつて野球のピート・ローズが引き起こしたスキャンダルも連想した。ジョーダンも試合で賭けプレイをしているのではないかという疑惑である。NBAはこの問題を調査し、ジョーダンはNBAの規定のルールに違反していないと結論を出した。

 ここまで書いてきたところで、ブルズはサンズとの6試合目を1点差で勝ち取り、3年連続優勝に輝いた。優勝カップを握りしめたジョーダンはさすがに嬉しそうだったが、テレビ・カメラを避けるかのように、ビールを頭に振りかけるロッカールームでの騒ぎには参加していなかった。
 今頃、スポーティング・クラブは、サンズの惜敗を口にしながら飲み直すファンでいっぱいに違いない。ニューヨーカーは底辺からはい上がってきたバークリーの闘志を思い起こして、次のシーズンまであの問題児の悪態や冗談が聞けないことを残念がっているに違いない。




posted by まき at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | MJ | 更新情報をチェックする
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