2005年07月27日

T・ハットフィールド

24日に書いたティンカー・ハットフィールドの記事も、マイケルと関わる部分が多かったので読んでみました。でも、やたら長いので意訳抄訳・・・あまり興味のない部分は飛ばしたというか。(^_^;
それでもまだ長い〜。長過ぎて読み返すのが疲れたから、漢字の変換ミスとか見落としているかも(笑)


【Tinker's toys】 Fri, Jul 22, 2005
――Nike designer has shod 2 million feet, and he's not done yet

ティンカー・ハットフィールドは、24年間ナイキのクリエイティブ・ジャイアントとして数多くのプロジェクトを手掛けてきた。

そして、1986年にデビューして以来、基本的に毎年新しいデザインが発売されてきたエア・ジョーダン。ハットフィールドは、最近の投票で最も人気が高いシューズに選ばれたAJ IIIの誕生と共に、プリンシパル・デザイナーになった。

それ以来、彼は11のエア・ジョーダンに携わり、今年20番目のアニバーサリーが巡ってきたとき、最も忘れ難い仕事現場に戻るよう依頼された。

AJ XX が2月のNBAオールスターウイークエンド期間中にデンバーで公開されると、ESPNマガジンがイベントを大きく取り上げ、業界誌『Sole』は、「マイケル・ジョーダンとティンカー・ハットフィールドは、自分たちの夢を実現するために必要な情熱と才能と献身と意志の力を持った男たち」だと述べた。

人口が500人に満たない小さな町で育ったハットフィールドは、1971年に自分の高校を独力で州のAA陸上競技選手権へと導いている。

彼はオレゴン州のコーチングサークルでは伝説的な人物、ティンカー・ハットフィールド・シニアの息子で、高校4年生のときの公式競技会には、100メートル、ハイハードル、ローハードル、棒高跳びで優勝。ビル・ボワマンがコーチするオレゴン大学へ進学した。

オレゴン大学では初めて17フィートを跳んだ選手となり、1976年のオリンピック選考会では6位に入った。しかし、彼の職業に重要な影響があったのは、ボワマンとの個人的な関係の方だった。ボワマンはハットフィールドの入学1年後にコーチを引退したが、創成期のナイキと関わりがあり、建築を専攻する芸術家肌の学生だったハットフィールドは、コーチと気が合った。

「ビルは私を導いてくれた」とハットフィールドは言う。「彼は引退後もシューズの開発に取り組み、私はいつもその姿を見ていた。私は彼のアイデアをスケッチして、目に見える形でフィードバックできたので、気に入られていたんだ」

1976年に大学を卒業してから、ハットフィールドは4年間建築士として働き、ボワマンのシューズ研究室でアルバイトをしていた。

1981年、ボワマンや当時のナイキ社員ジェフ・ホリスターとの関係から、ハットフィールドは創業間もない会社の社員になったが、プロダクトデザイン部門に移るまでの4年間は建築士として勤めていた。

「ティンカーは80年代前半に、『ブランド・デザイン』と呼ばれた素晴らしいデザインスタジオを作った」と、当時はフットウエア部門を率いていたナイキの社長、マーク・パーカーは言う。「私は彼の仕事場に立ち寄り、シューズのスケッチを眺めながら、ここに真の才能がある、と思ったものだ」

ハットフィールドが初めて大きく関わったフットウエア・デザインは、パーカーが「ナイキにエネルギーを与え、ビジネスレベルを上げた」と言う、エア・レボリューションとエア・マックスだった。

次の大型プロジェクトは、ナイキの発展にとって重要な時期に来合わせたエア・ジョーダンIIIだった。エア・ジョーダン II の販売は、ジョーダンが足の骨折でシーズンのほとんどを休んだためと、当時としては高額だった(100ドル)値段のせいで、好調ではなかった。AJ IIIのデッドラインの数週間前、クリエイティブ・ディレクターのピーター・ムーアと、もう1人の上級幹部ロブ・シュトラッサーが、自分たちの会社を始めるためにナイキを去った。2人はそれまでマイケル・ジョーダンの担当者だった。

プロジェクトは急きょハットフィールドに任された。彼はそれまでエア・ジョーダンのデザインには関係していなかった。

その一方、ムーアとシュトラッサーがしきりにジョーダンを誘っていたせいで、ナイキの最高経営責任者フィル・ナイトはピリピリしていた。

「彼らはマイケルを中心に自分たちのビジネスを発展させようとしていた」とハットフィールドは言う。「フィルはMJが去ることにかなりナーバスになっていた。非常に不安な時期だった。私は大きなプレッシャーを感じた」

ハットフィールドは、ジョーダンと親密な関係を確立するために、建築家としてのバックグラウンドを働かせた。

「まずやりたかったのが、マイケルに電話をかけて、個人的に会うことだった。私は建築士として、クライアントへの対応に慣れていた。マイケルには彼の家を建てているかのように接した。誰かのために家を設計するときは、いきなり『これがあなたの家です』では済まない。事前に相手の生活を知る必要があるんだ」

「マイケルはそれまで、そういうふうに働いたことはないと思う。実際、フットウエア・ビジネスでは誰もそうしたことはないだろう。私にとっては自然なことだったのだが。製品をデザインするために、相手をプレーヤーとしてだけでなく、人間的に知るということは」

「ドクターJ、マジック・ジョンソン、ラリー・バードは皆、シューズを持っていたけれど、彼らはただ名前を提供していただけだ。アスリートを本当にシューズ製作のプロセスに関与させたのは、これが初めてだった。それを1番誇りに思う」

ジョーダンは複雑な心境だったようだ。

「今にも彼が逃げ出しそうな、かなり緊張したミーティングを何度か行った。デザインの刺激が引き戻したようなものだと思う。それから、シューズやアパレルの開発と、さらに、 自分のために良い仕事をしてくれた人々と一緒にいるように、という父親のアドバイスが、マイケルを私たちの元に引き留めたのだろう」

エア・ジョーダンIIIは、マイケルの依頼でハイクオリティな素材を使い、普通のバスケットボールスニーカーより軽く、ハイトップでもロートップでもない4分の3カットに仕上げた、初めての高級スポーツシューズだった。

「彼は毎試合新しいシューズを履きたがるから、硬くて履き慣らしにくいものではダメなんだ」

デザインと製造に短い時間しかかけられなかったにもかかわらず、エア・ジョーダンIII は抜群の人気と売り上げを示した。それは、田舎町出身の青年と最高のバスケットボールスターとの実り豊かな関係の始まりだった。ハットフィールドは社内で多くの仕事を任されていたが、毎年新しく改良されるエア・ジョーダンの考案に自分の時間の一部をささげた。そして、それぞれが小売業者にストックを競わせる熱狂的な成功を収めた。

2001年、ハットフィールドはエア・ジョーダンの仕事から身を引く。

「長年、とてつもないプレッシャーがあった」と彼は言う。「エア・ジョーダンはただのシューズではない。あれは、他のシューズやアパレルも購入してもらうように顧客を店へ駆り立てる、主導的タイプのプロジェクトだ。人の心をつかんで離さない、革新的な、それでいて人々が手を伸ばすのをためらうほど過激ではないデザインを考えなければならない。私は少し疲れてしまった。他の誰かにトーチを渡す時期だった」

再び、エア・ジョーダンXXのデザイン責任者の役割を持ちかけられたとき、ハットフィールドは「イエスと答えるのに5秒しかかからなかった。マイケルともう少し親密に接する良い機会だったから。彼とはずっと連絡を取り、けっこう会ってもいたけれど、これはもっと本格的で、ほとんど昔に戻ったようだった」

「私がまず初めに書いたこと:様々な出来事を通してマイケルのキャリアを回顧するが、それは次のステップへのメカニズムに過ぎない。私たちは世界一進化したパフォーマンス用のバスケットボール・シューズをデザインしよう。前進するために過去を振り返る。少しノスタルジックで、だが新鮮なパッケージで」

AJ XX にはクリエイティブな妙案がいくつか盛り込まれている:ソールには20のポッド、サイドには69のくぼみ(ジョーダンの1試合最高得点)、リースを使ってハイトップからロートップに変更もできる。

そして、ハットフィールドはポートランドに住む注文製トランペット・デザイナーのデイビッド・モネットから、ジョーダンXXの主要なテーマのアイデアを借りた。モネットはウィントン・マルサリスのために作った楽器に、宝石職人の手で偉大なミュージシャンの思い出に残るシーンを刻み込ませていたのだ。

インスピレーションを受けたハットフィールドはシカゴに飛び、よみがえる記憶をスケッチしながら、ジョーダンと一緒に4日過ごした。そして生まれたものが、200のレーザーグラフィックで描かれたモザイク -- 半分がジョーダンの人生の重要なピース、残りの半分が過去20年間エア・ジョーダンの製作に関わった人々を描写する -- で飾られたシューズだ。

「多分、MJにとって1番大切なグラフィックは」と、AJ XXのスポットを指してハットフィールドは言う。「この道具箱だ。これはパップス -- MJはそう呼ぶ -- 何でも修理できた彼の父親を示している」

ハットフィールドは、AJ XXを「私たちがやってきた中で最高のプロジェクト」と呼び、個人的な立場からも、ジョーダンと再び結びつく機会がそれを特別なものにしたと言う。

「私たち2人は、自分たちの関係をどのように感じているか、プロセス全体がどのように進行してきたか、見つめ直さねばならなかった。カタルシスな体験だったよ。マイケルは、次のコーナーの先にあるものがすべてという人だ。スローダウンして、いくつかの質問に答えたり、自分の人生に影響を及ぼすものについて考えるのは、彼にとっても良いことだったと思う。私たち2人にとって、ちょっとエモーショナルなことだった」

175ドルの AJ XX は、店頭に並ぶはしから売れている。

「最近は販売数を抑えている。以前は1年にもっと多くのエア・ジョーダンを販売したものだが、ジョーダンラインが他の多くの製品に拡大したので、市場にはんらんさせることは意味をなさない。最初の10年から12年は100万足以上販売した。それも、やや安価な子供用シューズは含めずに。時にはそちらの方が多く売れたくらいなのだが」

今年、カラーウェイと呼ばれる異なったカラーバージョンは別々にリリースされる予定だ。

「ファーストカラー(白)は数量限定3万足で売り出された。セカンドカラー(黒)は7万5000から10万になる。それから、サード、フォース、フィフスカラーも間もなく、たぶん地域限定カラーで出るだろう。西海岸、中西部、東海岸には、その地域だけで販売されるカラーウェイがあるはずだ」

「私たちは常に、製品の数量を制限して限定的に保つ方法を見つけようとしている。どこの街角でも目にするわけではない、それが最高級の製品を特別なものにしておく神秘性の一部だ」

ちなみに、エア・ジョーダンXXI はすでにドウェイン・エドワーズによってデザインされている。

「本当に素晴らしいシューズになるだろう。2006年のオールスター・ブレイク頃にリリースされるはずだ。毎年、マイケルの生活に関連する何かから、シューズのデザインのためのインスピレーションを探す。彼は美しい新型のベントレーを所有している。そこから得たインスピレーションが XXI に活かされる」

自分がエア・ジョーダンの開発に費やす時間は、ナイキで過ごす時間の5パーセントから10パーセントだとハットフィールドは言う。彼はイノベイション・キッチンと呼ばれる部署で働いている。

「ティンカーを1人で働かせるよりも、他の人材を周囲に配置して、もっと彼に力を発揮してもらおうということなんだ」とパーカーは言う。「彼はスペシャルプロジェクトを率いる立場にある」

昨年CEOを退任して以来、フィル・ナイトもイノベイション・キッチンで働いている。

「フィルは以前よりも製品開発に関わるようになった」とハットフィールドは言う。「アスリートとの付き合いを除けば、それが彼にとって1番楽しめることらしい」

イノベイション・キッチンでは約30人の社員が働いている。

「私たちはナイキの本業から少し区分されている。おかげで私は、経営上の幹部というよりクリエイティブなプロセスの一員であり続けることができる。私はVPだが、会社にとっての私の価値は、アスリートと協議したり、デザイングループを率いることだと思う」

「私は常に、ナイキでもブランド・ジョーダンでも、私が必要だと感じるプロジェクトに取り組むフローターなのだ。例えばバスケットボールのような、特定のグループやカテゴリーに属したことは1度もないが、必要に応じてほとんどのスポーツジャンルを横断する少数の人間の1人だ」

ハットフィールドはナイキの仕事以外でも忙しい。選抜された棒高跳び選手を指導し、高校陸上部のアシスタントコーチを務め、サイクリングやロック・クライミング、ピラテスやウエイトトレーニングで体を動かす。5フィート10.5インチ、175ポンドのハットフィールドは、大学時代の体重から数ポンドしか増えていない。3人の娘はすでに成人したので、結婚して28年になる妻と自由に旅行を楽しむこともできる。

近いうちの引退を考えていないハットフィールドには、たくさんのチャレンジが残されている。ナイキにとって、トップでいることは決して十分ではない。Just Do It がスローガンであり、少なくともあと数年は、ハットフィールドもその真っただ中にいるだろう。さらに上を目指して。
posted by まき at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Jordan Brand + NIKE | 更新情報をチェックする
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