2008年02月21日

TIP-OFF (40)

オールスターの間に見つけたサム・スミスのコラムが間に合わなかったので、前からためてあったコレでも・・・何か、全然面白くならないまま、ダラス・マーベリックス編は終わりです。(^^;
ちっともドラフト当日にたどり着かない〜。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第11章:The Safe Pick - 4

記憶はいつもあいまいなもので、この年のルーキーに関する重要なディテールについて、ダラス関係者の記憶も一致していない。ソンジュは、サム・パーキンスの獲得が最初からの希望で、何の迷いもなかったと言う。しかし、当時のメディア・ディレクター ケビン・サリバンは、パーキンスがトップ3に選ばれてしまった場合に備え、代案が用意してあったと記憶している。モッタも、センターの穴を埋めるためにメル・ターピンを獲得する話し合いがあったことを認めた。しかし、サンドはターピンへの関心を覚えていなかった。彼が唯一思い出したのは、マーク・アグワイア+ドラフト1巡目指名権(最終的には4位)でブルズからジョーダンを盗むのに失敗したことだった。

ダラスが望むなら、チャールズ・バークリーという別の興味をそそる選択があった。しかし、マブスにはすでにバークリーがいた。マーク・アグワイアという、有能で、自己主張が強く、口が達者で、体重の問題を抱えたスモールフォワードだ。モッタとアグワイアは、年がら年中お互いに憤慨しており、結局モッタが辞めるまで2人の確執は続いた。マブスには、新人王の投票でアグワイアを上回ったジェイ・ヴィンセントという天性のスコアラーや、頼りになるシューターのローランド・ブラックマンも所属していた。さらに、バークリーはマブスのオーナーたちがリユニオン・アリーナで築きたいと望んでいた自覚ある社会人のイメージにフィットしなかった。「バークリーは興味深く素晴らしいリバウンダーだった」と、ソンジュは言った。しかし、オリンピック選考会のアシスタントでもあったテネシー州立大学の殿堂入りコーチ、ジョン・マックレンドンから、著しく否定的な報告があった。「バークリーについて本当に落胆させられたことを覚えている」と、ソンジュは言う。

マブスは是が非でもサイズを求めていた。1983−84シーズン、6フィート9インチのフォワード、パット・カミングスがセンターに転向したが、ダラスはリバウンド争いで遅れをとることが多かった。「私たちには4番か5番でプレーできるサイズの男が必要だった」と、バスケットボールの専門用語を使いながらサンドは言った。当時の彼は、トップ5で指名される全員が一流選手になるだろうと強く確信していた。モッタとアシスタントのボブ・ワイスもパーキンスの指名を支持した。「私は本当に彼を気に入っている」と、ドラフト前にモッタは言った。「彼は3年以内にオールスターになるだろう。ウィングスパンは7フィート7インチもある。うちにとって最高のショットブロッカーだ。NCAAで優勝した大学のスターターで、パン・アメリカン大会でも金メダルを獲得している。すでに、大勢のNBA選手を相手にした練習試合で成功を収めており、勝利には何が必要かということを理解している。そして良い若者だ」
サンドを納得させたのは、ラルフ・サンプソンやパトリック・とユーイングと対戦するパーキンスのビデオだった。特に、バージニア大学戦でサンプソンを相手に37得点した試合が強い印象を与えた。

ダラスが持っていたもう1つの1巡目指名権(15位)については、誰も確信がなかった。サンドは選択権をトレードしようと試みたが、相手が見つからなかった。「私はストックトンの大ファンではなかった」と、サンドは認めた。「誰もがそうだったように、3年後か4年後には大ファンになったがね」
チームのポイントガード ブラッド・デイビスとストックトンは、長所も弱点も重なり合うように思われた。2人ともアンセルフィッシュで、あまり高く跳べない。サンドは、ストックトンびいきのジョージ・カール(当時はクリーブランドのコーチ)から何度も話を聞いた。しかし、彼の可能性を選ぶほど、ストックトンを見たことがなかった。「それまで高度なスカウティングをしていなかったし、実際にストックトンを見たのはポーツマスが初めてだったんだ」と、ドラフト候補生を集めた春の公式キャンプに言及して、サンドは言った。その代わり、マブスの2つ目の指名権の候補は、NCAAトーナメントでノースカロライナ大学に火をつけたテンプル大学のテレンス・スタンズバリーだった。

マーベリックスは、リユニオン・アリーナでニューヨークからの映像を見守るドラフトパーティーを催し、数千人のファンが詰め掛けた。そして、ソンジュは、パーキンスのカードを手に、奥の部屋にいた。ケーブル放送が普及する前の時代だったが、チーム当局はテレビ中継をセットした。それは本当に一大事だった。サリバンはマブスが指名を考えていた選手全員のリストを作成していた。ジョン・ストックトンは入っていなかった。

ゲスト解説者はSMU(サザン・メソジスト大学)のデイブ・ブリス コーチだった。およそ20年後、ブリスはベイラー大学を舞台にした最も汚いリクルーティング・スキャンダルに関与する。自分が選手たちに渡した不正利益供与を隠蔽するため、彼はチームのメンバーに、別の元ベイラー大学選手に殺害された被害者、パトリック・デネヒーがドラッグを売ることで今回の収入を稼いだのだと捜査当局に告げさせた。そのスキャンダルはブリスのキャリアを破滅させた。しかし、1984年のブリスは、まだ若い新進コーチでしかない。

マブスがパーキンスを指名したとき、集まったファンの反応は好意的なものばかりだった。パーキンスは一流大学の有名選手だった。ただ、1巡目の後半(15位)に指名したスタンズバリーについて、ダラス関係者は少し心配していた。ファンは誰も彼のことを知らず、サンドは指名の直後、ブリスに何か良い点を話してくれるように伝えた。マブスは、ドラフト指名について攻撃されないように、すでに地元紙のコラムニスト、スキップ・ベイリスやランディ・ギャロウェーに自分たちの選択をぶつけていた。

ダラスは、例えばマイケル・ケイジのような他の誰かを捕まえられたかもしれない。しかし、スターンがクリーブランドに12位指名権を与えたため、ダラスの指名権は15位に落ちた。NBAでも成功したケイジは、14位でクリッパーズへ行った。立場が不確かだったスタンズバリーは、1巡目指名に大喜びした。彼は、デラウェア州出身で初めてNBAドラフトの1巡目指名を受けたプレイヤーになった。翌日、メディアやチーム幹部と会うためにダラスを訪れたスタンズバリーだが、結局、自滅的な契約保留のあと、違う場所(インディアナ)へ向かうことになる。

一方、五輪選考会に参加中のパーキンスは、ロサンゼルスへ向かい、金メダルを獲得する。ようやく養親とダラスを訪問したとき、パーキンスは方向感覚がおかしくなっていた。「大急ぎでロスを出発してダラスへ行った。未知への旅立ちだったよ」と、パーキンスは思い出す。「ダラスへ行ったのは初めてで、住む場所を探したんだ。本当に変な気分だったね。長くLAに滞在して、次の日にはすべてが終わりだから」
パーキンスは行く先々に金メダルを置きっぱなしにした。ソンジュの車に忘れたこともある。それは、ソンジュがダラスに持ち込むつもりのタイトルと同じくらい大きなタイトルだった。


posted by まき at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | TIP-OFF | 更新情報をチェックする
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