TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第13章: Sweet Sixteen - 3
たぶん、フランク・レイデンのポジションが十分安全だったから、良く知られていない選手を指名する決断もできたのだろう。レイデンはフランチャイズの大黒柱の1人だった。300ポンドの体重と偉ぶったブルックリンのバックグラウンドにもかかわらず、手袋のようにチームにぴったりだった。「笑いは敗戦を楽にする」。ジャズで生き抜いた秘訣について、彼は常にそう説明するだろう。母親が出産直後に亡くなったため、生まれたばかりのフランクと2人の姉たちは、もとボクサーだった港湾労働者の父親の手で育てられた。プレーグラウンドでバスケットボールの腕を磨き、フォート・ハミルトン高校の頑丈なガードに成長したフランクは、ボールを手にするたびに撃ちたがるシューターとして知られた。それはコーチングにとって好ましいことではなかったが、バスケットボールの日程が教職員のストライキに脅かされた時期、初めてベンチでの仕事をもらった。レイデンは、地元のキリスト教青年団に所属するチームを同時にいくつも掛け持ちし、プレーとコーチをするようになった。自分の罪のない不誠実さを隠すために、ラッシュ・ラルーやハッピー・デイリーのような有名人の名前を借りて。
レイデンはニューヨーク州北部にあるナイアガラ大学から奨学金をもらい、ヒュービー・ブラウンとルームメイトになった。大学の1年生を指導してからコーチングのとりこになり、程なく、ロースクールに通う計画を断念した。その決断は簡単だったという。なぜなら、どこのロースクールからも入学を認められなかったのだ。大学卒業後はニューヨーク州パチョーグにあるシートンホール高校のコーチとなり、やがて、ナイアガラ大学に戻って、1968年から76年までコーチを務めた。1970年にはチームを初めてのNCAAトーナメントへ導いている。とは言え、レイデン本人は、実際にチームを率いたのはカルビン・マーフィーだと言うだろう。自分は任せていただけだと。レイデンには自虐的ユーモアがあった。それは、ジャズのように長年苦闘を続けるフランチャイズで、アシスタント・コーチ、コーチ、ゼネラル・マネージャー、チーム・プレジデントとして29年間運営に関わるために最適な資質だった。
ニューオーリンズでの1977−78シーズンは、彼にとって最も奇妙で最も不穏なシーズンだったろう。真のジャズ、アドリブ奏者のピストル・ピート・メラビッチが膝を壊した。オーナー株は持ち主が変わり、チームは移転を計画していた。そのシーズンが始まる前、1977年6月のドラフトで、レイデンはちょっとしたイタズラ心を起こし、チームの7番目の指名権をNBA史上初めて、デルタ州立大学の女子選手、ルシア・ハリスに使った。「その後、彼女の妊娠が判明したので、私たちは2人の人間をドラフトしたことになるのさ」と、レイデンは笑う。彼がドラフトでふざけたのはそれが最後ではない。1985年の7巡目では、個人的な好みでハーバード大学のキース・ウェブスターを指名している。レイデンはハーバードにバスケットボール部があるのかどうかも良く知らなかったが、ウェブスターはトレーニングキャンプで非常に好印象を与え、もしジャズにグリーンとストックトンがいなければ、ロスターにも残っただろう。「ピッツバーグであった最後のプレシーズンゲームで、カットする直前だった彼をキャプテンに任命し、マイケル・ジョーダンとマッチアップするところを写真に撮ってやったんだ」と、レイデンは回想する。「そのあと、私が悪い知らせだと思うことを告げると、彼は、『コーチ、気にしないで下さい。僕はハーバードを卒業して、UCLAのロースクールに行くつもりです。いつか、自分でチームを所有したとき、あなたのことを思い出します』と言ったよ」
1979年、ジャズはニューオーリンズから移転した。アリーナの賃貸契約を破らないようにスーパードームのドアがロックされる直前、自分たちの備品と共に逃走したのだ。フランチャイズはスポーツ史上最も不似合いなニックネームをそのままにした。当初はフランチャイズの名前を変える議論もあったが、共同オーナーのサム・バッティストーンは、賃貸契約を要求すると共に自分を盗聴したニューオーリンズの役人や政治家への変わらぬ不快感の象徴として、ニックネームとチームカラーを残すことに決めた。ソルトレークシティはメジャーなプロスポーツで最も小さなマーケットでもあり、レイデンは構想を絶望的だと思った。ソルトレークシティでの最初の4シーズン、彼の悲観はもっともに見えた。ユタ・ジャズは一連の災難とドタバタ喜劇の繰り返しに苦しみ、すべてのシーズンで5割をかなり下回っている。1979年10月15日、ソルト・パレスでの最初の試合で、レイデンは、自分がGMだけでなくサンドイッチマンの役割も演じていることに気づいた。大量の無料チケット配布にもかかわらず、開幕戦のアリーナは半分以上が空席だった。コミッショナーのローレンス・オブライエンに惨状を目撃されたくなかったレイデンは、ウエスト寺院へ向かう通行人を誰かれなく呼び入れるよう、大声で受付に命じたが、招待を受ける市民は少なかった。ユタに移った最初の3シーズン、ジャズの観客動員は平均7665人だった。早い時期の状況は非常に悪く、ファンから試合開始時刻の問い合わせがあると、「何時ならいらっしゃれますか?」と答えたくらいだ、とレイデンは言う。
【TIP-OFFの最新記事】



