2007年09月16日

萌え

asayan.jpg


乙女(?)心が刺激されて、とても好きな1ショットです。
さすが小池義弘さん撮影。

※PENTHOUSE平成7年11月24日増刊号asayan JUMPMAN より

closeup.jpg やっぱりこの表情だろうなぁ。 ぽ。
posted by まき at 20:05| Comment(8) | TrackBack(0) | BOOKS | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

ターヒールズ物語(4)

●マイケルが舌を出してプレーするのは、大学へ入学する前からの癖だった。シーズンの早い時期、本人はそれについて、「僕はずっと口をあけてプレーしてきた。もう習慣になっているんだ。危険だと思ったこともないし。シーズン前、スミスコーチからマウスピースを使うべきじゃないかと勧められたけど、使わなかった。それからは何も言われていないよ」
サム・パーキンスによると、そのことで上級生の何人かがジョーダンをからかっていた。ジョーダンの舌がトレードマークの1つになるのはずっと先のことで、当時はかなり奇妙に見えたものだ。
「そんなふうに舌を突き出していたら、いつか噛むぞ」と、サムは警告した。そして、ある日、実際にそうなった。それほどひどく噛んだわけではなかったが、「ちょっと血が出て、マイケルは少しきまり悪そうだったな」

●スミスコーチは、1年生の頃のジョーダンを“そこそこ”のアウトサイドシューターだったと記憶している。最高でもなく最低でもなく。彼のシュート成功率は50%を超えていたが、アクロバティックなドライブでバスケットに突っ込むプレースタイルが関係していたから、特別シュートが上手いということでもなかった。
この本のためのインタビューで、スミスコーチは回想している:「NBA入りして5年目の終盤に、いつ自分がピュアシューターになったと思うか尋ねたことがある。マイケルは、『4年目が終わった頃、オープンな15フィートのシュートなら外さないことに気がつきました。それが自分の“ピュアシューター”の定義です。15フィートのオープンショットが必ず成功するわけではないけれど、常に入りそうに思えるんです』と答えたよ」

●82年の2月頃、マイケル・ジョーダンは練習後も体育館に残り、余分にシュート練習をするようになった。数年前、ウォルター・デイビスにも同じ練習をさせたガスリッジコーチの指導を受けて。(シューティングはガスリッジコーチの担当だった)
「ウォルターは良いシューターだったが、スランプに陥ってね。シューターなら誰でもあることだが。そこで、毎日77本のシュート練習を余分にするようにした。それが1977年のことだ。ベースラインからの10フィート・ジャンパーばかり。君も知っているだろうが、10フィートのベースライン・ジャンパーは難しいシュートなんだよ。簡単そうに見えるがそうではない。バックボードを使えないからね」
「マイケルはシーズン中盤にスランプになった。スミスコーチは、その前から何度も、マイケルのグリップに問題があると指摘していたんだ。マイケルの手が大きすぎて、普通の人間がバレーボールでシュートしようとする感じになるんだね」
ジョーダンはノースカロライナ州立大戦で1−6、シタデル戦で3−10だった。そこで、ガスリッジコーチと余分のシュート練習をすることになった。1982年だったから、82本の。
「マイケルの場合は、ベースラインからのジャンパーに限らず、さまざまな角度からシュートさせるようにした。彼にとって大事なのは、自信を持つことだったから」
当時、ジョーダンは地元紙にフラストレーションを告白している。
「僕に対するディフェンスが変化したんだ。以前はゾーンディフェンスの外からジャンプショットをさせてもらえたのに、今では、僕がボールを持つとすぐディフェンスが襲いかかってくる。なかなかノーマークになれなくて、シュートを急いでしまうんだ。長すぎるシュートが多いのは、そのせいだと思っている」
82本の余分なシュート練習は実を結び、ジョーダンはシューティング・ガードとして優秀な53.4%の成功率を残した。NBAのキャリアを通しても、シュート成功率は5割をわずかに下回るだけである。

●ジョーダンはほとんど無名だった。81-82シーズンの中盤を迎えた頃でさえ。あるとき、ホームで行われたデイゲームに勝ったあと、マイケルはお母さんと一緒にカーマイケル・ジムの裏を歩いていた。シャーロット・オブザーバーの記事によると、ジョギングで通りかかった人が、ジョーダンのことを誰か知らずに、「ターヒールズが勝ったかどうか知っているかい?」と聞いた。「はい」と、ジョーダンは答えた。「彼らは勝ちましたよ」

●グランヴィル寮の地下室にはビリヤード台と卓球台が備えてあり、マイケルは挑戦相手を探して入り浸っていた。
「あいつとピンポンなんかするもんじゃない。勝たなければ別だけど」と、当時3年生のジミー・ブラドックは言う。「あんなにすさまじい負けず嫌いはいないよ。自分が勝つまで何度でも対戦させられるんだ。ピンポンはマイケルが1番だったが、私も時々勝てることがあったからね。いつもコークを賭けるか、さもなければ、練習前の余分なスプリントを賭けた。彼はプレッシャーを楽しむんだ。何かかかっている時の方が強いから、いつもプレッシャーを加えたがっていた」
「マイケルは負けることが何よりも嫌いだった」と、ジェームズ・ウォージーも同意する。「バスケットボールでもバックギャモンでもビリヤードでも。あの男は本当の勝利者だ。もし私がもう1年残っていたら、彼とプレーするのは素晴らしかっただろう」
1982年のチーム・マネージャーだったラルフ・ミーキンズも付け加える:「マイケルとは、いつでもどこでもトランプの“クレイジー・エイト”をやったものさ。ニッケル(5セント)を賭けてね。自分が負けたままでは絶対にやめたがらないんだ」
広報部長のリック・ブリューワーは、ジョーダンが筋金入りの負けず嫌いだと知っている。「マイケルは何にでも勝ちたがった。ゴルフ、バスケットボール、何にでも。重要なのは勝利だけだ。私が知っている中では、僅差で2番目の負けず嫌いだね」
では、1番の負けず嫌いは?
「ディーン・スミスだ。信じがたいと思うだろうが、彼はマイケルよりも負けることが嫌いだった」

●決勝戦が終わったあと、私たちは少人数のグループに別れて、ニューオーリンズのフレンチ・クォーターを散策した。1つのグループに、バズ・ピーターソンと彼の高校のコーチ、マイケル・ジョーダンが一緒だった。
「バズ、僕が決めたあのショット・・・どれくらい大きかったと思う?」と、マイケルは尋ねた。
「かなり大きかったと思う。でも、いいかい、僕が言うことを覚えておけよ。これから時間がたてばたつほど、あのシュートは大きくなっていくだろう」

TarHells-3.jpg


81-82シーズン中に何度か、みんなでネットをカットする練習をしていたそうです。(笑)
若いマイケルが可愛いっすネ。
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2007年07月29日

ターヒールズ物語(3)

あともう1回続きます。

●ノースカロライナ大学のコーチ陣で最初にジョーダンを見たのは、ビル・ガスリッジコーチだった。「ウィルミントンにいる友人から電話があって、レイニー高校に優秀な子がいるから、一度見に来るべきだと言われたんだ。マイケルのことを耳にしたのはその時が初めてだったよ」
「そこで、私がウィルミントンまでスカウトに行き、スミスコーチに奨学金をオファーすべきだと報告した。マイケルのことはACCレベルのプレイヤーだと思ったが、どこまで成長するかは分からなかったね − 14歳のジェームズ・ウォージーをスカウトした時と違って。当時のマイケルは、単に優れたアスリートというだけだったが、4年生のシーズン中に、良いプレイヤーになるだろうと分かったんだ。まあ、完全に予測できたわけではなかったけれども。あの頃、いや、大学1年のシーズン終了後でさえ、彼はきっと偉大な選手になると確信していたという人がいたら、それは何かの勘違いか、嘘をついているのだと思う。それでも、当時から信じられないほどの闘争心の持ち主だったがね」
 
●「私は、4年生のシーズンが始まる直前、1980年の8月か9月にケンタッキー大学と口頭で約束を交わしていた」と、バズ・ピーターソンは語る。
「それを知った高校のコーチからロイ・ウィリアムスに連絡がいくと、すぐにスミスコーチが高校の体育館にやって来てね。私はプレータイムが欲しかったんだ。誰だってそうだろう。でも、スミスコーチが来てくれたから、再びノースカロライナ大学のことを考え始めた。マイク・ペッパーはUNCへの進学を取りやめたので、私が倒さなければならない相手は、ウィルミントンから来る1年生だった」
「私は、マイケルがどれだけ優秀か、あまり知らなかったんだ。まだ知り合った直後だったしね。彼は私よりずっと早く、11月にノースカロライナ大学と約束して、「君はいつ決めるんだ?」と電話してきたよ。私は1月まで返事ができなかったのだが」
その頃はまだ、バズはスターター争いでジョーダンに勝つ自信があった。1981年の夏、2人が一緒に高校オールスター・ゲームに出場するまでは。
「それまでにも彼のプレーを見たことはあった。でも、彼は突然、まったく違うプレイヤーに見えた。あのゲームでは30得点して、MVPに選ばれるべきだったよ。実際に選ばれたのはエイドリアン・ブランチだったが。あの日初めて、スターター争いでマイケルを倒すのはものすごく難しいことだと悟った」

●1981-82シーズンが始まる前、ターヒールズの専属アナウンサーだったウディ・ダーラムが、開幕へ向けての準備についてスミスコーチに尋ねた。
「なかなかいい。ウィルミントンから来た子がちょっと助けになると思う」
25年後、ダーラムは笑いながら言う:「あれは史上最高に控えめな表現の1つだったね」

●早い時期にマイケル・ジョーダンを見たバスケットボール関係者の中で、最も正確に未来を予見したのは、ビリー・カニングハムだった。カニングハムはディーン・スミスの60年代の教え子で、最初の偉大なプレイヤーだ。ある試合では、48得点&25リバウンドを記録している。1965年、チャペル・ヒルのキャンパスにスミスの人形が吊り下げられたとき、引きずり下ろした学生の1人だ。
彼はやがて、選手としても(67年)コーチとしても(83年)NBA優勝を果たす。
つまり、ビリーCはバスケットボールを知っていた。カニングハムは、NBAシーズンが始まる前の早秋にチャペル・ヒルへ戻り、スミスが指揮する練習を見学するのが好きだった。スミスとカニングハムは、お互いのチームのビデオを見て、お互いのプレイヤーについて批評し合った。
「1981-82シーズンの開幕前、ターヒールズの練習を見学に行き、ジョーダンを見た。そこで、ディーンに『ノースカロライナ大学出身で最高の選手になりますね』と言ったんだ」
「ところが、ディーンは怒り出してね」と、笑いながらカニングハムは続ける。「彼はそういうことを聞くのが嫌いだから。ディーンにとっては全員が平等なんだ。だから私は、『コーチ、コーチ、マイケルを見てくださいよ。簡単に分かることじゃないですか』と言ったのさ」

●サム・パーキンスはマイケルと1学年しか違わなかったが、性格は正反対だった。サムは「のんびり屋」で「物静か」だった。
では、マイケルは? サムに語ってもらおう。
「1年坊主だっていうのに、あいつには何も言えなかったね。お前はシュートができないとか、シュートすべきじゃないとか言おうものなら、絶対シュートするんだから。覚えている人は少ないだろうが、あいつはあまり良いジャンプシューターではなかった。でも、ガスリッジコーチが指導して、弱点が長所に変わるまで取り組んでいたね。それに、当時からバスケット周辺では並外れていた。そこで得点するコツをつかんでいたよ」
「1981-82シーズンでよく覚えているのは、マイケルが練習を面白くしていたことだな。あいつは、自分のチームが勝つと、寮の部屋に帰ってからも、いつまでもいつまでも確認させたがるんだ。そのおかげで練習での競争が激しくなり、全員が上達したと思う」
マイケルがどれほど練習熱心だったかは、皆が覚えている。「試合以上の猛烈さで練習していたな」と、当時2年生だったセシル・エグズムは言う。「マイケルは究極のジム・ラットだった」


・・・え〜と、ガスリッジコーチとビリー・カニングハムの意見は対立してませんか。(^^;
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2007年07月28日

ターヒールズ物語(2)

とりあえず、もう1回くらい続く予定です。
今さらですが、著者は82年優勝チームの4年生PGジミー・ブラックで、シャーロット・オブザーバーのスポーツコラムニスト、スコット・ファウラー(UNC87年卒業)がインタビューを担当する共同執筆。

●ノースカロライナ大学では毎年、プレシーズンのコンディショニング・プログラムの一環として、40ヤードダッシュのタイムを計測した。ポジションごとに3つのグループに分かれて走り、タイムが遅い順に除かれていって、最後に残った3人は誰だったと思う?
ジェームズ・ウォージー、マイケル・ジョーダン、バズ・ピーターソン。6フィート9、6フィート5、6フィート3の3人だった。
最終結果には驚くと思うよ。トップはウォージーだったんだ。彼は本当に途方もないアスリートだ。2位はバズ、ジョーダンは3位だった。
「あれは素晴らしい思い出さ」と、ピーターソンは言う。「おかげで、私は今でもマイケルに、『ハイスクール・プレイヤー・オブ・ジ・イヤーで君に勝った。1年生の時の40ヤードダッシュでも君を負かした。さらに、水泳ならいつでも君に勝てるぜ』と言うことができるからね」
ビル・ガスリッジコーチも当時のレースを覚えている。そして、翌年の結果がどうなったかも。「マイケルはバズよりずっと速かった。完全に圧倒していたよ。接戦にすらならなかったね」

●私たちはほとんど、マイケル・ジョーダンのことを「マイク」と呼んでいた。しかし、シーズン中盤に、彼の名前はマイクからマイケルに変わった。少なくとも公的には。新聞やテレビのコメンテーターは、彼をマイケル・ジョーダンと呼び始めた。チームメイトにとってはまだ「マイク」のままだったが。
当時の体育広報部長リック・ブリューワーによると:「ジョーダンが入部したとき、選手たちは彼のことをマイクと呼んでいた。だから、シーズン前に発行するメディアガイドには、そのまま掲載したんだ」
「ところが、やがて選手たちの半数はマイケルと呼んでいることを知った。スミスコーチは独特なところがあって、チャーリー・スコットをチャールズと呼ぶ少数派の1人だし、本名の方を好んでいた。なので私は、ジョーダン本人に相談に行ったんだ。体育館のロッカールームへ降りていくと、彼が1人きりでシューズに紐を通していた」
ブリューワーはジョーダンに近づき、名前のことで悩んでいると話した。
「君はマイクとマイケルとどちらがいい?」
「ぼくは別にどっちでも。どちらがいいと思いますか?」
「マイケルの方が響きがいいと思うんだ。舌がなめらかに流れるというかね」
「OK」
あっけなく答えて、ジョーダンは練習に向かった。

TarHeels-02.jpg●シーズン開幕前に発行されたメディアガイドから。
憧れのアスリートは?
ウォルター・デイビス マジック・ジョンソン
好きな映画は?
Weapons of Death スーパーマン スーパーマン2
今まで読んだ中で1番良かった本は?
The Pearl (※スタインベックの『真珠』のことかな)
卒業後の進路希望は?
プロ・バスケットボール

●1982年の決勝戦の重要性は、すぐに私たち全員の記憶に刻まれたわけではなかった。例えば、決勝シュートを決めたジョーダンだが、試合後、数人の記者に対して、あのシュートは自分にとって2番目に重要な決勝シュートだと答えている。
では、最も重要なシュートは?
「クリスマス・トーナメントでハノーバー高校を破った試合の残り7秒のシュート」

●練習後、何人かが体育館に残ってワン・オン・ワンに興じることがあった。ジョーダンとウォージーも何度か対戦している。
「各バスケット1点の5点先取で3回対戦したと思う。マイケルはいつも私とプレーしたがったが、こちらが相手にしなかったからね。3回のうち、私が2勝した。つまり、2勝1敗で私の勝ちというわけだ! それから対戦したことはないから、2勝1敗のままだよ。彼は今でも、私の顔を見るたびにうるさいんだ。まだリベンジしたいんだね」

●マイケルが高校の代表チームからカットされたのは有名な話だが、高校3年の頃のマイケルは、地元ではすごい選手として知られていた。マイケルと同学年のリンウッド・ロビンソンは、州東部の高校に通っていたから、何度か対戦している。
「マイケルがコートにいるときは、5−2で当たったものさ。3年生の時に1度だけ7点に抑えたことがあったけれど、たいてい25点か30点は取られていたな。うちの方が戦力が整っていたから、勝つには勝っていたが。当時から、彼は最強の相手だった。背が高くて、リム周辺に強く、シュートもソフトで上手かったよ。でも、あんなにすごくなるなんて、100万年かかっても分からなかったね」

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2007年07月27日

うっとり第3弾

いつまで続ける気…(^^;
これも何か大好きなショットなんです。
363KBもあったので、80%に縮小しましたが。

rareAIR-04.jpgモニカ・セレスがあの男に刺された直後、ぼくにどう思ったか、みんながたずねてきた。そのてのことは怖いよ。でも、だからといって、ぼくのまわりに四六時中、警備をつけたりボディガードを雇ったりするということではないんだ。もしぼくを狙うのであれば、ぼくを消すことができるってことだ。囚人のような生活はしたくない。部屋を出ることを恐れたり、玄関から外に出る勇気をなくしたくない。

たとえば、ぼくはゴルフをしたい。ぼくの生活は快適だし、わずかな恐怖によって、それを変えるつもりはないんだ。脅しはある。そういった脅しが、現実にいまの時点であるのなら、話は別だけどね。

熱狂的なファンのこと? ぼくには、見分けがつかないよ。彼らが実在のものであるということは知っている。男なのか女なのか、それもわからない。けれども、何かやろうとする場合には、わずかでも気配を感じるということを、ぼくは知っている。(写真集『rareAIR』より)

■撮影者ウォルター・ヨース・ジュニアのひとこと:ホテルの自室にとどまることでスポットライトから逃れるという、彼の生活の別の一面をとらえている私のお気に入りの1枚。


木曜日、ボブキャッツはゴールデンステイトから交渉権を獲得したドラフト36位指名ジャマレオ・デヴィッドソンと契約。
オーランド・サマーリーグでは22位指名のダドリーと一緒に2ndチームに選ばれていたし、少しでもインサイドの助けになれるよう頑張ってほしいな。
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2007年07月26日

ターヒールズ物語(1)

というところなんでしょうね〜。
82年のNCAA優勝から25周年を記念して出版された『Tales from Tar Heels』(参照)。
マイケルのエピソードを探して拾い読み(笑)しているんですけど、まぁ、ほとんどはハルバースタムの『ジョーダン』で読んだ気がする・・・ハルバースタムの取材力がさすがというか、マイケルの友人は口が堅いというか。新たな暴露話は期待できないようです。(^^;

以下、抜書きで。

TarHeels.jpg●マイケル・ジョーダンはスターターの中で唯一の1年生だった。アスレティックで、未熟で、おかしな奴で、生意気だった。私たち上級生はよく、「マイケル、お前はどうしてそんなにうぬぼれているんだ?州のMVPでもなかったくせに。何とか言ってみろ」と、からかったものだ。前年の高校MVPはバズ・ピーターソンだったからね。
2人が1年生の頃は、バズの方が優れたシューターだった。マイケルは非常に才能に恵まれていたが、それがどれほどのものなのか、チームメイトは誰も知らなかった。まったく、彼がどれだけ進化したか考えると、今でも驚くよ。

●81−82シーズンのほとんどは、リンウッド・ロビンソンがサウンドトラックを準備し、マイケルはフィルムプロジェクターを運んだ。それが1年生に与えられた仕事だったし、通常は、とても優秀で、すごく生意気な1年生が分担させられた。マイケルは両方とも適合していたからね。

●81−82シーズンのチームで最も興味深い関係の1つが、2人の1年生−−マイケル・ジェフリー・ジョーダンとロバート“バズ”ピーターソンだった。今、マイケルのことは誰でも知っているが、バズのプレーを覚えている人は少ないだろう。
アッシュヴィルで育ったバズは、子供の頃から素晴らしいシューターで、バスケットボール・ジャンキーだった。高校4年生の年にはノースカロライナ州で最高の高校生に選ばれている。
「マイケルにはいつもそのことでからかわれるよ。ただ、そうは言っても、彼は高校時代から卓越したアスリートだった。まだバスケットボール選手として磨かれていなかっただけだ。体も成熟していなかったしね」と、ピーターソンは言う。
2人はノースカロライナ大学で親友になり、一緒にデイビス・ラブ三世からゴルフを習った。また、ジョーダンの現役時代、バズは毎年ブルズの試合を見に行っていた。
「プロになって3年目の頃、マイケルから聞かされた話を忘れない。彼は地元で、ノースカロライナ大学へ進学しても私の控えになるだけだ、お前の選択は失敗だ、と悪口を言われたそうだ。大学1年の頃、練習の間に考えていたことといえば、『バズより上手くなる、バズより上手くなる』だけだったと聞かされたよ」
 
●マイケルとバズはグランヴィル寮のルームメイトで、いつもお互いの衣類を貸し借りしていた。シューズのサイズは2人とも13だったが、ジョーダンの足幅の方が広かったので、ピーターソンのローファーは全部伸びて形が崩れてしまった。
「僕のローファーを全部大きくする気なら、ドレスシューズは一生お前が貸すんだぞ」とバズは宣告した。
およそ15年間、それはその通りになった。ブルズの試合を見に行くたびに、バズはジョーダンのクローゼットからドレスシューズを2足選び(もちろん、MJも同意の上で)自宅へ持ち帰った。「もうしないけどね。今は自分の靴くらい自分で買える」と、ピーターソンは笑う。

(たぶん)続く…。
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2007年07月24日

うっとり第2弾

rareAIR-02.jpg


なんにもネタがないし。
写真集『rareAIR』の表紙に使われた写真です。
95年暮れに注文して、年明け10日に届いたとき、「うっは〜♪」となった表紙です。

撮影者ウォルター・ヨース・ジュニア氏のひとこと:3月(※93年3月でしょう)に、マイアミにあるメイフェアホテルの屋上で撮った。ライフガード(※英語の原文でもlifeguardなんですけど、ボディーガードじゃないんですかね?)に、傘をマイケルにさしかけるよう頼み、ぼくは彼の顔に光が反射するよう地面に白い大きな傘を置いた。背景は最高だった。

大きなマイケルに見つめられたい方は続きからどうぞ♪
ついでに昨日の写真も100%にしました。
どうして80%に縮小したのか自分でも不思議。(^^;
kenkenさん、すみません。(笑)

続きはこちら
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2007年07月23日

最強の美しさ☆

rareAIR-1.jpg写真集『rareAIR』の中表紙(というのかな?)になっていて、しばし見惚れた横顔。

これはカードをスキャンしました。
サイズを小さくすると美しさも半減だから、できるだけ大きいままでUP。
やっぱり素敵☆彡
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2006年12月22日

結婚指輪キラリ

新しいプリンタにはスキャナがついているので、使ってみたんですけど…。
あんまり綺麗にできないなぁ。

<DRIVEN FROM WITHIN より>
◆ジョージ・コーラー (シカゴへ着いて最初に会った人。ジョージのおかげで、シカゴで寂しい思いをしたことがない。今でも。 by MJ)

マイケルには、身辺の雑用を片付ける係りが付いているとでも思われていただろうね…特に現役時代には。違うんだ。遠征前、マイケルは自分で服を用意する。全部ひとまとめにして。ジャケット、シャツ、タイ、ソックス、シャツにはカフスボタンが付けてある。それから靴。服装一式を床に並べるんだ。マイケルがどれだけ極端かと言うと、それが適切なコーディネイトであることを確かめるために、実際に全部着てみたりする。それから、服を脱いでハンガーに戻し、荷造りするんだ。誰がそんなふうに考える?

IMG_0001.jpg

僕は瑣末な事柄に取り組む。瑣末な事柄が重なれば、大きな事になる。MJ

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

話変わって。
この頃ホント指輪しないね〜なぜ? 嫌いになった?(指輪が(笑)) 

Celebrities Attend Charlotte Bobcats vs. New York Knicks Game - December 20
w1220-5.jpg
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2006年12月03日

超感覚

昨夜、テレビ朝日の番組を見て、『DRIVEN FROM WITHIN』のエピソードを思い出したので。(しかし、大雑把な意味が分かるのと日本語化するのとでは、今さらながら雲泥の差だった…何かこれ、観念的だから難しい!)

「人体は究極のセンサーだ」 <こういうのを知ると、一流アスリートには凡人と違うものが見えていても当然のように思いますね〜。

◆ハワード“H”ホワイト (ナイキでの初めての友人 by MJ)

どの宗教を考えても、神は私たちの内に存在するということが理念の核心である。人がオレンジを手に取るとき、そこにあるのはただの球体、丸い果実だ。しかし、その皮をむけば、食べる物、自分を養えるものを持つことになる。さらに、その内側には、永久に食べ続けられるように蒔くための種がある。それは本質的に、自分が何者であるかということだが、外観にばかり気を取られる私たちは、めったに種まで到達しない。

世界を明るくできるそれらの種まで到達する人は少ない。MJは、他の人間が彼について語ったよりももっと、自分自身を見ていた。さて、これは興味深い部分だ。彼は自分を見ることができるようになった。真の瞑想術とは、すべての言葉、行動、事象を越えて物事を見晴らし、さらに、自分自身をも背後から観察できるようになることだ。責務は、担える人々にとって巨大である。マイケルは人々の期待に応えるプレーをしただけでなく、その期待すら超えていた。素晴らしい競技であるためには、相手の選手にも、最高のプレーをしなければならないという考えが必要である。マイケル・ジョーダンがテーブルにもたらしたものは、誰でも理解していた。さらに、マイケルはいつも、あらゆるものをもたらしていた。相手は、すべての瞬間に自分の最高の力を発揮する必要があると知るとき、たいていつまずく。特に、ただその瞬間の自分を表現しているだけの人間を相手に、そうやってプレーすることは不自然だ。マイケルは何も考える必要がなかった。彼のプレーは、自分が誰かということだった。

それは、最も純粋な形の自己表現だった。それで、マイケルが何かを起こし始めると、他の選手は、自分ももっと一所懸命やらなければ、と考える。マイケルはマイケルだった。もっと懸命にプレーすることや自分のゲームを高めることを考える必要がなかった。

1989年のプレイオフ、シカゴでクリーブランドと対戦した試合を思い出す。ブルズにはホームでシリーズを終わらせるチャンスがあったのだが、マイケルはフリースローを失敗した。それも1度ならず。あの日、彼はかつてないほど、フリースローを決められなかった。

そして、シリーズは最終第5戦のためにクリーブランドへ戻る。私たちと一緒にホテルの部屋にいたマイケルは、「映画を見よう」と言った。友人たちは黒いままのテレビ画面に映像が現れるのを待っていた。マイケルは、その何も映っていないテレビを凝視していた。とうとう私が、「おい、大丈夫か?どうした?」と声をかけなければならないほど。彼は真っ黒な画面にゲームを見ていたのだろうか?これから起こることを視覚化していたのだろうか?それは、彼がシリーズを勝ち取るシュートを決めた日だった。

すべては、起こることになっていたのだろうか?

――――

いくつかのことは、そうなるよう運命づけられている。僕は本当にそう信じている。
MJ
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2006年10月16日

NASCAR見学

nascar_04_061014.jpgプレジデントのフレッド・ホイットフィールドに引率されて(?)、ビッカースタッフGM&HC、ジェラルド・ウォレス、エメカ・オカフォー、レイモンド・フェルトン、アダム・モリソンが、土曜日にシャーロットで開催されたNASCARレース Bank of America 500 を見学。(記事

ノースカロライナでは絶大な人気を誇るというNASCARのファンを取り込みたいわけですね〜。(^^)

フォトギャラリーを眺めていたら、4人のプレイヤーの中で、ウォレスだけが上から下までジャンプマン。
愛い奴。(笑)

コーチとプレジデントもですけどね。まあ、ホイットフィールドさんは当然か。


なぜって・・・


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