2008年10月10日

TIP-OFF (80)

微妙に意味不明な箇所は深く考えないで下され〜。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 7


1993年に、ジョーダンは、ちょっと野球をやってみるために最初の引退を発表した。「父に最後の試合を見てもらうことができたのが、せめてもだ」と、引退会見でコメントしている。ただ、気まぐれに手を出したスポーツで成功することはなかった。単純に、野球もゴルフと同じように、そのような高齢でマスターできなかったということだ。ジョーダンは1995年にバスケットボールへ復帰したが、まだ、さらに3度の優勝を達成するのに十分な時間が残されていた。1998年6月14日、ソルトレークシティーでのファイナル第6戦、残り5.2秒の場面で、彼のジャンパーがネットを揺らしたとき、誰もが、これが彼のプロとしての最後の瞬間だと信じた。そのウィニング・ショットと、彼の顔に浮かんだ決然とした表情は、時間の中に凍結され、時がたつのを見ている。

「いったんモーメントに入ると、物事がゆっくり動き始める」と、どのように自分の最後の偉業を成し遂げたか説明しようとして、ジョーダンは言った。「コートが良く見えるようになる。ディフェンスが何をしようとしているのか読めるようになる。僕はそれが見えた。モーメントを見たんだ」
その日、ソルトレークシティーで、初めてプレイオフのシリーズを制した1988年のクリーブランドとの最終戦と同じように、ジョーダンはこぶしを突き上げ、コートで踊った。彼は、87得点というチーム総得点のうち45点を1人であげ、重要な4スティールを決めた。そして、ジョーダンは常に挑戦を愛していたが、この試合こそ、35歳でチャンピオンとして引退するための強い論拠だった。彼はしかし、そうできなかった。数多の成功と時折の屈辱をもたらした抑えがたい衝動、その闘争心のために、もう一度現役に復帰したのだ。1人の選手として、そして選手ほど熱の入らないエグゼクティブとして、ジョーダンは、2001年から2003年までワシントン・ウィザーズで思い通りにならない2シーズンを過ごし、エイブ・ポリン オーナーから唐突に追放されるというひどい結末を迎えた。ポリンにとって、プレーをしない、ファンを引き付けないジョーダンは、用なしだった。ジョーダンの人事決定は決して優れていなかった。レオナード・ハミルトンをHCとして雇い、1シーズンで解雇した。ドラフト1位指名権を高校生のクワミ・ブラウンに使い、ひどい失敗を犯した。将来のオールスターでNBAチャンピオンとなるリチャード・ハミルトンをトレードで放出した。

ウィザーズ時代は誤りだったが、それで何かが変わったわけではない。彼の指紋は永遠にこの競技に残る。2003年、ついに最後の現役引退をしたあと、ジョーダンは家族と共にほぼ隠遁生活に入った。彼の姿を見かけるのは、常連のゴルフ大会への出場(全米ゴルフ協会の公式ハンデは4オーバー)や、広告契約によるプロモーション、新しい本を宣伝するためにオプラ・ウィンフリー・ショーに出演したときくらいなものだった。

しかし再び、ただプライベートな時間がほしいと強く主張しながらも、ジョーダンはゲームや競争にじっとしていられなかった。やがて、彼とファニータは離婚を発表する。2006年6月、彼はシャーロット・ボブキャッツの共同オーナー兼マネージング・メンバー・オブ・バスケットボール・オペレーションとなり、バスケットボールとノースカロライナ州へ帰って来た。2002年に3億ドルでフランチャイズ権を手にしたボブ・ジョンソン(アフリカ系アメリカ人の実業家)は、その時から4年間ずっと、ジョーダンに働きかけてきた。ジョーダン本人は自分のチームのマジョリティー・オーナーになろうと試みていたが、NBAのフランチャイズの数は限られており、次に入手可能なフランチャイズを確保できる保証もなかった。ラリー・バードも自分のグループを率いてボブキャッツの権利を手に入れようと試み、失敗している。そこで、ジョーダンはジョンソンのオファーを受け入れた。ウィザーズで傷ついた経営者としての評判を正すチャンスを。彼は経営陣の一員であろうとしているが、ボブキャッツの選手たちは、少なくとも1度か2度の練習に顔を出さずにいられるかどうか、声に出して怪しんだ。

彼は驚くばかりに華々しいキャリアを送り、今もそれは続いている。3位指名としては悪くない。

「ノースカロライナ時代から、俺たちはあいつが優秀だということを知っていた」と、サム・パーキンスは言う。「でも、当時はカレッジだったからね。マイケルがあそこまで優れていることは誰にも分からなかった。俺はプロになってから自分の目でそれを知る羽目になったよ。プロ入りして2年目か3年目のシーズン、俺たちのチームと対戦した試合で、あいつは別次元のプレイヤーだった。コートにいる他の誰とも違うプレイヤーだった」

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2008年10月08日

TIP-OFF (79)

この章は次くらいで終わり、あとは第18章(サム・パーキンス)、第19章(チャールズ・バークリー)、第20章(ジョン・ストックトン)、エピローグと続くのですが、どーもそろそろMJのこと以外は根気が続かなくなってきたので、たぶん第17章で終わらせていただきます。m(__)m
でもって、念願のBlood on the Hornsを訳せたらいいんだけど〜。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 6


上げ潮はすべてのボートを持ち上げる、と諺に言う。ジョーダンはまさに、ブルズのためにそうしたが、ルーキーシーズンの旅の道連れを救うのは間に合わなかった。彼らは全員、この素晴らしい冒険から置いていかれるだろう。1985年3月に、シカゴ・ホワイトソックスのオーナーであるジェリー・ラインズドーフがワーツ家からブルズを購入し、すぐさま人員整理を始めたとき、ジョーダンのリーグ1年目はまだ終わってさえいない。最初はコブラーだった。ソーンはラインズドーフとの長い会談に呼ばれ、簡単に言ってしまえば、70年代と80年代の一連の失敗に対して責任があったかどうかただされた。ラインズドーフはソーンに、すべてをコブラーのせいにするチャンスを与えた。ただ、自分の両手は縛られていたと言いさえすれば。ソーンは無罪の主張を拒否した。第一、それは真実ではなかった。「私はさまざまな決定に大きく関与しました。責任があると見なされるべきです」と、彼は言った。コブラーが解雇された2週間後の1985年3月26日、ソーンもまた解雇され、ジェリー・クラウスが後任となった。ブルズがバックスとのプレイオフ・シリーズから敗退すると、今度はコーチの番だった。ロカリーはアシスタントコーチのビル・ブレアやフレッド・カーターと共に5月下旬に解雇された。「唯一の驚きは、それほど長く私のクビがもったということだね」と、ロカリーは言った。ソーンとロカリーは何十年も一緒に働き、ジュリアス・アーヴィングとマイケル・ジョーダンという2人のレジェンドのキャリア創成期を育てている。ソーンはのちに、ニュージャージー・ネッツのゼネラルマネージャーとして、さらに2人のスーパースターを手に入れた(ジェイソン・キッドとヴィンス・カーター)。彼は、非常に魅力的なプレイヤーを見出すより、チャンピオンシップを獲得する方が困難だということを知った。

当時のシカゴに話を戻せば、その後も完全な人事一新が続けられた。6年後、ブルズがついに初優勝を遂げたとき、1984−85シーズンのジョーダンのチームメイトは1人も残っていないだろう。クラウスは驚くべき能率でロスターを一掃した。スティーブ・ジョンソン、デイビッド・グリーンウッド、エニス・ワトリー、ウェス・マシューズは1985年の秋にいなくなった。かつてはチームのトップスコアラーだったクィンティン・デイリーとオーランド・ウーリッジは、ロッド・ヒギンスやシドニー・グリーンと共に1986年に去った。デイヴ・コージンは1989年まで残ったが、優勝には届かなかった。ジョーダンがブルズで過ごした14シーズンに、さまざまな選手が入れ替わり、結果として、6度の優勝が達成されたのだ。クラウスの最も重要な取引は、1985年にクリーブランドが指名したチャールズ・オークリーを獲得したこと、1987年のドラフト当日にオルデン・ポリニスをシアトルへ送り、やがてジョーダンの右腕となるスコッティ・ピペンと交換したこと、1987年にホーレス・グラントをドラフトしたこと、1989年にフィル・ジャクソンをヘッドコーチにしたこと、1995年にウィル・パデューとの交換でスパーズからデニス・ロッドマンを手に入れたこと、などがある。これらは、ジョーダンの卓越したキャリアに十分なサポートを与え、シクサーズやセルティックス、レイカーズやピストンズと戦い、追い越し、ロケッツやニックス、ジャズを撃退するために不可欠な動きとなった。ジョーダンは偉大さとチャンピオンシップ・チームの定義を変えるだろう。もはや、NBAタイトルは必ずしも巨大な身体によって得られるものではない。もはや、プレイヤーの稼ぎはチームからのサラリーに限られない。ここに自我の極致を超える個人主義の勝利があった。プレイヤーにとって良いことは、広く解釈すればチームのためにも良かった。

ジョーダンはブザービーターを決め続けたが、実に欠点も弱点もある普通の人間だった。かつてクレイジー・エイトでピーターソンの母親をだますことにもなった、苛烈でどん欲な競争心が、程なく本当のトラブルをもたらすことになる。ギャンブル・スキャンダルは彼の評判を傷つけた。伝えられるところでは、1991年10月から始まったゴルフの借りを清算するために、ジョーダンからノースカロライナの麻薬密売人スリム・ボウラーに当てた5万7000ドルの小切手があった。もう1人のゴルフ仲間であるリチャード・エスキナスは、ジョーダンが1991年9月のたった一度のゴルフでどうやって125万ドルもすったかという本を急きょ出版した。ジョーダン本人は、その数字をでたらめだと言ったが。彼は有名になり、どこへ行っても気づかれ、騒がれるようになった。それにもかかわらず、1992年のニックスとのプレイオフの合間に、父親とアトランティックシティーへ出かけ、早朝までブラックジャックに興じていたことが報道された。NBAは何一つ規則違反を発見しなかったが、ギャンブルはリーグ当局者の大きな懸念だった。そして最後に、ジョーダンを最大の悲劇が襲う。1993年7月、父親が2人のティーンエイジャーに強殺されたのだ。ジョーダンは打ちのめされた。父親の失踪と自分のギャンブル交友との関連を匂わせる誤報に激怒した。一連のスキャンダル以降、ジョーダンはメディアと距離を置き、試合後のコミュニケーションさえ制限して、最低限の接触しかしなくなり、妻のファニータと3人の子供たちもカメラから遠ざけた。

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2008年09月27日

TIP-OFF (78)

もう5年くらい、朝はバナナと日本茶なんですが、何か最近、「朝バナナダイエット」のせいで、スーパーにバナナがない!
納豆は嫌いだから平気だったけど、バナナがないと困るので、早く流行がすたれてほしい!
朝バナナを食べるだけで痩せるのなら、誰もメタボで苦労しないでしょ。
はっきり言って効果はありません!と断言できます。(爆)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 5


そして、ジョーダンはリーグ周辺で信奉者を勝ち取りつつあった。もう、ジェームズ・ジョーダンやチャールズ・バークリー、ビリー・カニングハム、ディーン・スミスだけではない。ラリー・バードのような偉大な選手たちが、ジョーダンがNBAの未来を体現していると理解した。バードはまだ28歳で、さらに優勝回数を重ねるだろう。しかし、シカゴ・スタジアムの1万8061人のファンの前でセルティックスがブルズを110対106で降したあと(※85年2月5日:マイケルのスタッツは41得点&12リバウンド&7アシスト)、バードはロッカールームに腰を下ろし、自分を取り巻く記者たちに、この次世代の選手を、この純粋なエナジー・フォースを、称賛した。バードが敵をゲームのベスト・プレイヤーと呼ぶのはめずらしいことだった。今回、バードは、自分が引退したあとも長くリーグを背負うであろう若者について雄弁に語った。

ベストだ。彼のような選手は見たことがない。今までに見た誰とも違う。素晴らしい。比類がない・・・まだリーグ入りして間もない段階で、僕がこれまでやってきた以上のことをしている。僕がルーキーの頃は、あんなプレーはできなかった。まったく、今夜のドライブを見たかい。右手で上の方に持っていたボールを下におろし、もう一度上に持っていった。僕はボールを抑え、ファウルまでしたのに、それでもシュートを決められてしまった。しかも、その間ずっと、彼は空中にいたんだ。それがどれほど難しいことか知るためには、このゲームをプレーすべきだ。観客は彼を見て考える、「さて、いったいどんなことができるんだ?」と。最高のことだ。僕は以前、少しだけ彼を見たことがあるが、それほど感銘を受けなかった。と言うか、良い選手だとは思ったが、これほど優れているとは思わなかった。彼にできないことは何もないだろうね。1人の選手があれほどチームを好転させるところは見たことがない。ブルズの全員が、彼のおかげで上達している。オーランド・ウーリッジはこれからずっとオールスターになるかもしれない。そして、近いうちに、このスタジアムは毎試合満員になるだろう。セルティックスが来たときだけでなく。ファンは彼を見るために金を払い、やって来る。このフランチャイズのためにもリーグのためにも良いことだ・・・僕は、リーグ入りして最初の3シーズンは、ボストン・セルティックスのことしか気にかけていなかった。でも、NBAは最も弱いチームを抜きにして成り立たないことを理解してから、以前よりリーグのことを気にかけるようになった。別に、毎朝、新聞でリーグ中の観客数をチェックするわけではないが、この競技はずっと良くなり続けているように思う。去年は僕が経験した6シーズンで最も競争的なシーズンだった・・・今シーズン後半やプレイオフは、これまでで最高のシーズンになるかもしれない。NBAは常に上昇し続けていると思うよ。

バードは宣伝マンになった。ジョーダンはそのことに気づかず、NBAでの日々にすっかり恍惚となっていた。毎晩試合があることを除けば、二晩ごとに競争的な試合があることより楽しいことなどあるだろうか? こんなふうにして、ジョーダンはシカゴのもう一人のスポーツ・ヒーロー、アーニー・バンクスと同じやり方で、自分の競技に伝わりやすい伝染性の熱狂をもたらしたのだった。

楽しみはいつかそのルーキーシーズンを終えなければならない。1985年4月26日、ブルズはバックスと4試合戦った末にプレイオフの1回戦から脱落した。しかし、ジョーダンは第3戦に将来のプレイオフでの華々しい活躍を予感させるプレーを披露している。合計35得点に加え、残り17秒で決勝のベースライン・ジャンパーを沈め、ブルズに109対107の勝利をもたらしたのだ。第4戦の敗退後でさえ、ジョーダンは期待に沸き立っていた。学生寮の部屋をあとにし、バズ・ピーターソンと別れ、3年生でプロへの転向を決めてから1年後、彼は自分の決断が正しかったことを確信した。彼の父親は正しかった。コーチは正しかった。ジョーダンは用意ができていた。「多くの人が予想したよりも少し良い成績が残せて満足だ」と、彼はブルズについて語った。「僕が大学を早く出てきたのも正しいことだったと思う。自分では1度も間違ったことをしていると思わなかったけれど、たぶん、そう思った人もいたと思うんだ」
彼は、母親との約束を守るための学位を取得するために、ノースカロライナへ戻るところだった。「南部へ帰って、ちょっと授業を受けるつもりだ」と、期待に顔をほころばせながら、ジョーダンは説明した。「たぶん、明日にはディーンと話ができると思う」

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2008年09月26日

TIP-OFF (77)

ふと気がついたら、もうすぐ10月なのにスカパーのNBAリーグパスから何の連絡もない。
まあ、今シーズンは本当にどうしようか迷ってるんですけどね…。
こんな時期になったらもう、「早期契約割引」もなさそうだし〜。(^^;
HPには「レギュラー放送継続の前提で現在、最終調整中」と書いてありました。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 4


今やブルズはジョーダンのチームであり、デイリーはしがみつくことができればラッキーだろう。ブルズは初めて、ジョーダンを主役にするテレビや印刷媒体の広告のために、ジャック・レビー&アソシエイツという外部の広告会社と契約した。11月13日のサンアントニオ・スパーズ戦でジョーダンが45得点したあと、NBAの試合では3年間満員になったことのないシカゴ・スタジアムが、2試合連続完売を記録した。そして、リーグ全体も莫大な景気づけを得た。ケーブルテレビの視聴率は20パーセント上昇し、観客動員数もほぼ同じくらい増加した。12月までに、プロサーブのフォークは、ナイキと総額250万ドルに及ぶ5年契約をまとめ、史上初となるシューズのシグネチャーラインを約束させた。「自分が手にしている成功のせいで、うぬぼれているとは思わない」と、シカゴの企業リーダーたちとのミーティングの合間に、ジョーダンはビジネス・ウィーク誌に語っている。「僕は普通に暮らしているし、自分にとって自然なプレーをしているよ。いったんコートに立ったら、本当に楽しいんだ」

誇大宣伝は誇大宣伝を呼び、自ら膨張し、爆発しかねなかったが、ジョーダンは自らのゲームであらゆる騒動を裏打ちし続けた。12月7日のニックス戦では、ダブルチームされながら終了ブザーぎりぎりの決勝シュートをねじ込んだ。天邪鬼で有名なニックスのヒュービー・ブラウン コーチだけが、ジョーダンに称賛を与えることができなかった。「ジョーダンのジャンプショットが、素晴らしいカムバックをした我々の望みを打ち砕いたのは事実だ」と、ブラウンは不満そうに言った。「しかし、ジョーダンのせいでオーランド・ウーリッジが目立たないというのもひどい話だね」(※マイケルのスタッツは21得点&3アシスト&2リバウンドだから、ウーリッジの方が良かったということでしょうか)

12月22日、シカゴでボストンを圧倒した夜に、ジョーダンは32得点を記録した。怪我人が多く、人手不足でプレーしたセルティックスは、大敗の真価を認めなかった。新しいスーパースターの誕生と共に、ライバル関係が生まれた。シーズンを終了したとき、ジョーダンは51.1パーセントのシュート成功率で28.2得点、5.9アシスト、6.5リバウンドという成績を残すだろう。そして、弱点だらけのブルズは4シーズンぶりにプレイオフへ進出する。
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2008年09月24日

TIP-OFF (76)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 3


1984−85シーズンが開幕する前のエキジビションゲームのうちから、誰もがすぐに、あらゆる大騒ぎの原因を理解した。ジョーダンは宣伝されているよりずっとエンターテイニングだった。誰も見たことがないほどのダイナミズムがあり、リーグで最も華やかなマジック・ジョンソンやラリー・バードより目立っている。プレイメーカーというわけではなかったが、コートビジョンに優れ、必要に応じたパスが得意だった。とにかく、ジョーダンは光り輝いていた。「彼は破壊的なプレーができる」と、ボストン・グローブのコラムニスト、ボブ・ライアンは書いた。そして、シカゴのファンは気づいていた。ブルズのシーズンチケットは1日に50パッケージずつ売れた。レギュラーシーズン開幕のワシントン戦に集まったシカゴ・スタジアムの観客は、騒々しく、エネルギッシュだった。その数1万3913人。ヘッドコーチのロカリーは、自分が1年前にシカゴに来てから最高で最大の観衆だ、と言った。敵チームはすでに、まだリーグで1得点もしていないルーキーを止めるためのディフェンスをデザインしていた。開幕前夜、「われわれはジョーダンをチームプレイヤーにしたい」と、ブレッツのアシスタントコーチ、バーニー・ビッカースタッフがワシントン・ポストに語っている。「離しすぎればジャンパーを決められる。近づきすぎたら抜かれる。接近して守り、しかし近づきすぎなければ、彼はパスをする。それが私たちの狙いだ。できる限りボールを他の誰かに持たせること。さもないと、彼にゲームを支配されかねない」

それは公式のプランだ。非公式なプランは、リック・マホーンとジェフ・ルーランドというブルーズ(bruise=打撲)・ブラザーズが痕跡を残さずにジョーダンを叩きのめすままにしておくことだった。それは、ある程度までうまくいった。ルーランドは第2クォーターでジョーダンと激突し、マホーンはピックから不意打ちをくらわした。ジョーダンは40分間プレーし、16本中5本のシュートしか決められないまま、16得点に終わった。しかし、7アシスト、6リバウンド、4ブロックショットも記録し、ブルズは109対93で圧勝している。試合後、シュートが不調だったにもかかわらず、ジョーダンは良いプレーができたと語った。試合では手荒い歓迎を受けていたが、ラフなプレーに不平を言うこともなく、ゲームは自分の予想どおりに進んだ、と述べた。試合後はどこのパーティーへ行くのか質問されたとき、ジョーダンは「うちへ帰って寝るよ。僕に必要なのはアスピリンとアイスパックだ」と答えた。ブルズのシーズン第2戦は、それほど成功しなかった。バスで90分移動したミルウォーキーで、ジョーダンはブザーと同時のベースライン・ドライブを外し、ブルズは108−106で敗れた。しかし、ホームにバックスを迎えた第3戦は、その後のシーズンの進路を決めることになるだろう。

クィンティン・ディリーはすでに、シックススマンとしてジョーダンのバックアップに回る新しい役割に反発を隠さなかった。前シーズンはチーム2番手のスコアラーだった激しやすいデイリーは、「個人的な理由」でバックス戦を欠場した。試合開始1時間前、デイリーの兄のトニーからアシスタントコーチのフレッド・カーターに、デイリーは寝過ごしたという電話があった。30分後、再び電話をかけてきたトニーは、弟の具合が悪いと弁解した。デイリーは1982年に憂うつ症で6試合欠場し、その後、ボルチモアで6週間、アルコールと薬物乱用のリハビリを受けている。今回、彼はホームゲームのバックス戦を休んで罰金を科されたが、当の試合はジョーダンが完全に支配した。合計37得点のうち第4Qに22得点をあげ、チーム最後の17得点中14得点を1人で記録した。残り31秒のジョーダンのバスケットが、デイリー不在のシカゴを116対110の勝利へ導いたのだった。
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2008年09月18日

TIP-OFF (75)

意味を解読するのが面白いだけで、ここに載せるのはホント自己満足ッス。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 2


1984年9月、ジョーダンがブルズと契約を結ぶためにシカゴを訪れ、イリノイ州一謙虚な金持ちという印象を与えた記者会見を開いたとき、ジョーダンに懐疑的だったコブラーも同席していた。1巡目指名選手が契約に署名するときはいつも、この種のメディアの集合が標準的で気の利かない業務だった。コブラーは、この契約が「シカゴに素晴らしい成果をもたらすことへのオーナーシップの献身を示す」と述べた。ソーンは、ジョーダンのサイズとクイックネスから、フォワードでなくガードでプレーするだろうと予測した。ジョーダンにとっては、この日は素晴らしい楽しみで、義務と同じくらい冒険でもあった。彼はリグリーフィールドのカブス対エクスポズを観戦に行き、地元の名物アナウンサー、ハリー・ケリーとオシャベリを楽しんだ。ジョーダンは子供の頃から野球が大好きだったが、実際にメジャーリーグを観戦したことはなかった。ノースカロライナ州近辺にはメジャーのチームがなかったから、と本人は説明している。ジョーダンの両親、ジェームズとデロリスも調印式のためにウィルミントンから出かけて来て、最後にもう一度、自分たちのサポートを示すために息子に付き添っていた。この後、彼らの息子はもう、記者会見に両親を必要としない。「僕はチームを運ぼうとはしません――とにかく適応したい」と、マイケルは集まった記者たちに語った。「“マイケル・ジョーダン・ショー”にはなりません。僕はブルズの一員であり、NBAで得られるものは何でも得る必要があります。でも、ボビー・ナイトと一緒に働くことができたら、誰とでもうまくやっていけるでしょう」

サラリーは良いスタートだったが、ジョーダンが想像されたこともない収入の流れを開拓するだろうということは、すでに明らかになりつつあった。フォークは当時、オリンピックによって、さらには素晴らしいルックスによって、ジョーダンがどれほど市場性の高い人間になったか語っている。優美な体形とハンサムな容貌で、ジョーダンはアフリカ系アメリカ人のスポーツヒーローの一員として登場した。ブルズと契約してから2週間も経たないうちに、さまざまなファッションに身を包んだフォト・ポートフォリオを作成し、ニューヨーク・タイムズとのインタビューでは自分のことを三人称で呼んでこう語っている:「マイケル・ジョーダンの多彩な面を見てもらおうという考えなんだ。遊び着で数ショット、ビジネス・スーツで数ショット、タキシードで数ショット――さまざまなタイプのコマーシャルで僕がどう見えるかということを示すためにね」

初期の広告で、ジョーダンは一言も発さなかったが、確かに非常に見栄えが良かった。フォークが指摘したように、ジョーダンは常に人目につき続けることができ、魅力の乏しい他競技のオリンピックスターより有利だった。フォークはその概念を「継続的な露出」と呼んだ。エージェントは、電子機器やバスケットボール・メーカー、そしてもちろん、シューズ・メーカーとのコマーシャル契約を考えていた。「彼を薄めすぎたくない」と、フォークは新しいエージェント用語を作り出して説明したが、その5年後の1989年には、「薄めすぎ」は問題でなかったようだ。ジョーダンはナイキと2000万ドル以上の7年契約を結び、さらに、マクドナルドやコカ・コーラ、ウィーティーズ、シボレー、ウィルソン・スポーツグッズ、そしてジョーダン・プロダクツと推定1000万ドルの契約を交わしている。ブラック・アスリートが白人のアメリカでセールスマンとしてやっていけないと考える専門家がまだ存在したなら、非常に愚かであることが証明された。スパイク・リーの独創的で巧みなコマーシャルと、ジョーダンの天性の人好きの良さは、マーケティングのモンスターを生み出した。「マイケルは何よりもそういう認識に変化をもたらした」と、チャールズ・バークリーは言う。「俺は彼とスパイク・リーに大きな称賛を送るよ。ナイキは本当にこういうことをした最初の会社だったし、コマーシャルが鍵だった。シューズ契約がすべてだった。マジックとラリーは史上最高のアスリートだが、シューズをマイケルとスパイクがやったようなレベルへ持って行かなかった」
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2008年09月16日

TIP-OFF (74)

1991 Eastern Conference Semifinal Chicago at Philadelphia, Game 3
プレイオフで接戦なら面白くないわけがなく、どんどんインサイドへドライブするマイケルのプレーも好きだし、かなり楽しめました。
ただ、画面が小さいせいで迫力がイマイチ〜やっぱテレビで見たい〜。
ムダにパワフル(褒め言葉)なマイケルのダンクもこんなものじゃないはず!
タイムアウトがきれいにカットされているので、ベンチでぐずるホーレス・グラントはちょっとしか見られませんでした。(笑)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第17章:A Different Kind of Star - 1


ドラフトの翌日、マイケル・ジョーダンがブルーミントンからシカゴへ到着したとき、地元に蓄積された負の記憶は、即座にブルズの新たな選択を疑った。ブルズの絶望的な状況はほとんど永久に続くように思われた。これはビッグマンではない。優勝チームを築くために是が非でも必要なインサイドの大黒柱ではない。ロッド・ソーンとケビン・ロカリーがジョーダンと一緒に地元紙のカメラの前でポーズをとったが、それらのスナップ写真の中で、本当に自信があるように見えたのはジョーダンだけだった。これは、ジョーダンがブルズの最初の練習に加わる数ヶ月前、ソーンがアシスタントコーチのビル・ブレアから喜ばしい電話をもらう数ヶ月前のことである。ブレアは、ジョーダンが経験豊富なチームメイト全員を全く相手にせず、段違いの才能を見せつけたスクリメージに立ち会うだろう。ブレアのシンプルなメッセージは、ようやくソーンに息をつくことを許したのだった。「どうやら大当たりのようだよ」と、ブレアはソーンに伝えた。

しかし、ソーンの解放はまだ、古くさいシカゴ・スタジアムの角を曲がった先にある。まず、ソーンが「かなりハード」と呼んだ慎重を要する契約の問題。オリンピックで優勝したジョーダンのプレイヤーとしての株と人気は大幅に上昇したところで、金銭で測るのが不可能な、途方もないマーケティングのポテンシャルを備えていた。幸いなことに、ドラフト1位指名から減額されていく給与表というガイドラインが定着している。もしジョーダンがトップ指名だったら、ソーンはきっと、将来のスーパーエージェント、デビッド・フォークを相手にした、もっと厳しい交渉を迫られたことだろう。話し合いは何週間も続き、ようやく、1984年9月12日に、ジョーダンはサインした。今となればバカバカしいほどわずかだが、当時は莫大な金額と考えられた契約に。シカゴ中が両者の交渉を我がことのように見つめ、そのような法外な数字を考えただけで頭を振り、舌打ちをした。18歳のホッケー選手、エディ・オルチェクがシカゴ・ブラックホークスと契約したとき、「マイケル・ジョーダンとブルズの契約金には遠く及ばないことくらい知ってるよ。ジョーダンの8分の1でいいから欲しいと思ったりするけど」と、冗談を言った。

結局のところ、ジョーダンの契約は年100万ドルに満たず、ルーキーシーズンはたった55万ドル+インセンティブだった。当初の契約は1987−88シーズンの約84万5000ドルまで段階的に増額され、そのシーズン終了後、ブルズは残り3年の契約を破棄して新たに総額2500万ドルの8年契約(年平均312万5000ドル)をジョーダンに与えた。新人契約を結んだとき、ジョーダンはラルフ・サンプソン、アキーム・アラジュワンに次ぐNBA史上3番目の高給を受け取るルーキーだった。これはただならぬ投資のように思われ、ブルズのジョナサン・コブラーCOOは、ソーンが大いに協議したことを確信するとはいえなかった。「アンバサダー・イースト・ホテルで一緒に一杯やったとき、コブラーは冗談めかして、『私たちが支払っている金額のおかげで、この子の評価は実態より高くなっているんじゃないか』と言ったんだ」と、ソーンは回想する。「マイケルがマイケルになったとき、私はいつもその発言を持ち出して彼をからかったものさ」
シーズン中盤、コブラーはディーン・スミスからも同じことを聞かされた。ある試合でコブラーと同席したスミスは、ジョーダンの何か素晴らしいプレーを目にして、コブラーがひどく不当な低賃金しか払っていないことを責めた。程なく、この事実は誰の目にも明らかになる。1984−85シーズンの終わりまでに、ブルズのホーム観客動員はジョーダン加入前の標準より87パーセント増加した。チケットセールスは180万ドル増の380万ドルとなり、プレイオフからも別途20万ドルの収入があった。ジョーダンは、非常に高額な自分のサラリーをほぼ4倍にして返したのだ。
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2008年09月11日

TIP-OFF (73)

1年以上かかって、何章も飛ばして、やっと16章終了・・・いつまで続くやら。(^^;

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第16章:After the Fall - 5


それでブレイザーズは1984年の有名なドラフトの失敗からいくぶん回復できたが、財政的な苦闘は現在まで続き、ポートランド市とチームは今、70年代後半から80年代前半のような純粋な愛情関係を楽しんでいない。オーナーのポール・アレンは、壮大なローズ・ガーデン・アリーナに融資することで大きな夢を描きすぎた。オレゴン・アリーナ・コーポレーションは破産を宣言し、アレンはポートランド市の納税者に資金を要求し始める。そして、2006年には、金が用意されなければブレイザーズをどこか他の都市に移転させるという、あいまいな脅しをほのめかしたインタビューの内容が、編集されてブレイザーズの公式サイトに掲載された。

最初の取引がなされたとき、リーグの財政は今と異なった。たとえば、1991−92シーズンのサラリーキャップは1250万ドルだったが、現在は4950万ドルだ。今にして思えば、我々は、長期にわたってトレイルブレイザーズを維持することができ、なおかつポートランド市のためにもなる取引をすべきであった。それは難しいことだ。実業家として、私は毎試合数十万ドルずつ損をしている。ひどい話だよ…。私はチームをポートランドにとどめたい。これが裁判沙汰になったり、誰かがチームを買収してどこかへ移転するというようなことになったら残念だ。

ブレイザーズがジョーダンをドラフトしていたら、事態はいくらか違っただろうか? もちろん、それを知ることは不可能だが、成功した王朝はチームの財務状況に素晴らしい効果をもたらすことができる。繰り返されたチャンピオンシップ・シーズンは、コミュニティーに好意を蓄積することができ、ファンが関心を失ったり不快感を抱くまでに、かなりの猶予期間がもたらされる。ジョーダンは1998シーズンを最後にシカゴを去ったが、没落したブルズの観客動員は直後の3シーズンで平均2万1000人を超え、その後も1万8000人をはるかに上回った。ブレイザーズもかつてはホットなチケットで、70年代から90年代にかけてコロシアムの完売を続けている(長い間、収容人数は1万666名だった)。1995年から2003年まで、新しいローズ・ガーデンは1試合平均2万人前後の観客を集めた。それ以降の平均観客数は1万6000人に下落したが、すべては公式発表の数字であるため、必ずしもまばらなアリーナの現実を反映していない。オーナーの発言を巡ってチームとメディアの関係は悪化し、インタビューのリクエストはすべてチームの承認を得なければならず、録音されたインタビューのトランスクリプトはチームの公式サイトで誰でも読めるようになるとチーム広報が発表するような状況にまでなった。これは事実上、あらゆるスクープ報道を損ないかねず、記者たちとチーム当局の関係に更なる緊張を強いた。

ジョーダンをドラフトすることは、優勝バナーや喧騒やジャージの売上やどんなオーナーもしばらくは幸福にするような満員の観客を意味したかもしれない。インマンは異なる視点で考えることを好む。1984年のドラフトはブレイザーズにとって非常に良いオマケだったのだと。そして、世論が誰かを非難したいなら、まず1巡目指名権をトレードしたインディアナが非難されるべきであったと。

「もちろん、やり直せるものならやり直すよ」と、インマンは言った。「だがね、それはたぶん欲張りすぎというものだ。トム・オーエンズと交換した1巡目指名権でマイケル・ジョーダンをゲットするなどということはね。マイケルは私たちのニーズと違ったんだ。マイケル・ジョーダンがNBAの助けになったことや、彼がシカゴで達成したあらゆることを、私はとても喜んでいる。彼は威厳をもって成し遂げた。比類のない存在だった。私は彼を自分のスターティング5に選ぶよ。NBA史上の。もちろん」

ブーイは誰のトップ5にも入らない。ブレイザーズで4年、ネッツで4年、レイカーズで2年プレーして引退したブーイは、平均10.5得点、7.5リバウンドの成績を残している。その数字は、彼が大学の最終学年で残した成績といくらも違わない。ニュージャージーやロサンゼルスでさらに多くの打撃やあざをこうむったが、足のビスは比較的しっかり持ちこたえた。引退後は家族と共にレキシントンへ移り、長女のバスケットボールのコーチをした。妻のハイジは処方薬に関する問題を抱え、2001年に世間に知られるところとなる。ブーイは仕事より家族を選び、ケンタッキー大学のゲーム解説者を辞職した。サムとハイジ・ブーイは力を合わせて危機を克服した。

「サムは素晴らしいバスケットボール選手だったが、それ以上に素晴らしい人間なんだ。彼を知る者なら誰でもそう言うと思う」と、ケンタッキー大学時代のチームメイトだったケニー・ウォーカーは言う。「サム・ブーイほど良くできた男はいない。大きくて力強い男は威嚇的であることを求められるが、それはサムじゃないんだ。サムはただ、自分がやるべきことをやったんだ」

それがマイケル・ジョーダンやビル・ウォルトンでないことを意味するなら、それはそれでいいではないか。ブーイ本人が2位指名を頼んだわけではないのだ。

「俺はサム・ブーイを気の毒に思うよ」と、チャールス・バークリーは言った。「彼は素晴らしい男だし、怪我をしたのは本人のせいじゃない。誰も彼もが結果論で彼のことをとやかく言おうとするよな。まるで、自分たちはマイケル・ジョーダンがマイケル・ジョーダンになることを知っていたかのように。あいにくだが、それを知っていたのは俺だけさ」
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2008年09月09日

TIP-OFF (72)

ポンテルで1991 CSF Chicago at Philadelphia, Game 3 買いました。
間違いなく届いて、ちゃんと再生できますよーに。
(英語でクレームをつけるのがイヤだから毎回けっこうサスペンス)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第16章:After the Fall - 4


それからも復帰してはぶり返すという状態が続く。1987年のプレシーズンに戦列に戻ったブーイは、試合前のウォーミングアップで再び右の脛骨を折った。もう一度、寛骨(hip bone)からの移植が必要になり、左脛骨と同様の、より複雑な手術が行われた。今や彼の右脚は、骨移植とビスと金属プレートで継ぎはぎされている。そのシーズンにプレーしたのは20試合だけで、以降の3シーズンも246試合中183試合を欠場した。足を引きずり、あるいは松葉杖でロッカールームへ向かうブーイの姿は恒常的なものとなり、経営陣に、ジョーダンをドラフトしなかった苦みを思い出させた。当時、すでに足の骨折から全快したジョーダンは、シカゴで華々しいフライトを続けている。ブーイは自分の高給に後ろめたさを感じたが、かなり楽天的な性格に加えて、強いキリスト教信仰を持っていたため、物事が起きるのには理由があり、自分は試されているのだと信じた。「背負いきれない重荷は与えられない」と、彼は自分に言い聞かせた。ポートランドのファンは一連の状況を決して気に入っていなかったが、ブーイに責任を押し付けることはなかった。チームで最もインスピレーションを与える選手にカーシーとブーイを選んだくらいだ。そういう意味で、ニューヨークやフィラデルフィアでプレーしていなかったことはブーイにとって幸運だった。

1988年の春、レイカーズと対戦するプレイオフを前に復帰したブーイは、ロサンゼルス・タイムズとのインタビューで、「僕の主な目標は、楽しむためにプレーすることとゲームへの愛情のためにプレーすることだ」と語っている。「コートを後にするときはいつも、また怪我をしなかったことに感謝している。自分の健康を当たり前のように思っている人があまりにも多い。そういう人たちに僕の試練がある種のインスピレーションになってくれたら嬉しいけれど、僕が経験したことやこれから経験すること――復帰――は、どんな意味でも英雄的なことだと思わない。確かに僕は骨折と手術という負担を負った。でも、それは運命づけられていたことなんだ。僕はクリスチャンで、常に、明日は定められていると感じてきた」

1989年のプレイオフ、ブーイは天敵アブドゥル・ジャバーとの対決に間に合った。初戦では7本中6本のシュートを決め、15得点という悪くないパフォーマンスを見せている。しかし、結局1回戦でレイカーズにスイープされたポートランドは、自分たちの失敗を断ち切ることに決めた。1989年、ブレイザーズはブーイとドラフト1巡目指名権をネッツのバック・ウィリアムスとトレードした。この動きはフランチャイズにかなりの利益をもたらすことになる。ブレイザーズは磁器の人形をNBAの鉄人と交換したのだ。ウィリアムスは、NBA入りしてからの6シーズンで1試合しか――ロニー・シェルトンの暴力から自分の身を守ったことによる出場停止のため――欠場していない。その後、ブレイザーズは全盛期を過ぎたばかりのウィリアムスと共に申し分のない7シーズンを送った。1990年と92年にはファイナルに進出し、優勝にあと2勝のところまで勝ち進んだ。
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2008年09月05日

TIP-OFF (71)

昨日から買おうかどうしようか迷っている
1991 Eastern Conference Semifinal Chicago at Philadelphia, Game 3
サム・スミスの『マイケル・ジョーダン 激闘のシーズン』(THE JORDAN RULES)には、マイケルの自爆が敗因の1つみたいに書いてあって、例えばシュートが34の10とか(34の10で46点?)、最後の2分でフリースローを3度失敗したとか。――ジョーダンの爆発の原因が何か、ジャクソンにははっきりしないが、それがチームのためには良くないとわかっていた。そしてこれが、ブルズのプレイオフで初めての負け試合であると同時に、ジョーダンの最大得点試合だったのは偶然ではない、とジャクソンは確信していた。(331ページより)――と。
じゃあ、あまり見たくないかも…と思いながら、一応basketball-reference.comでBOXSCOREを確認したら、FTは確かに3本ミスっているけど、マイケルのシュートは34の20!完全なミスですよねー。ひどいー。10と20じゃ大違い!
だったら、やっぱり買っちゃうかな〜。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第16章:After the Fall - 3


だが、ゴールデンステイトにはいない。1週間後のウォリアーズ戦は威圧的なマッチアップに直面することもなく、最終クォーターだけで14得点したブーイが、ポートランドを109対97の勝利へ導いた。最終的に、ブーイの成績はレイカーズ戦とウォリアーズ戦の中間くらいに落ち着き、アベレージで10得点、8.6リバウンド、30分ほどの出場時間を残し、オール・ルーキー・チームに選ばれるなど、まあまあ有望なシーズンを送った。ただし、不注意な性格のためファウルが多く、ファウルアウトも9回記録している。そして、ポートランドをすぐコンテンダーに変えたわけでもなかった。それはマスタープランで最も楽観的なバージョンだったのだが。インマンは、ブーイがフランチャイズをどこかへ引っ張って行こうとしていない兆候はすぐにあったと述べた。「一緒におしゃべりをする相手としてなら、彼は素晴らしい若者だった」と、インマンは言った。「私がサムを表現するとしたら、彼は常にメンバーの1人、チームの一員であるときに最も幸福だったと言わざるを得ないだろう。『僕はこのチームを背負いたくない。大きな貢献をしたい』というのが彼の姿勢だった」

ブレイザーズの成績は、前シーズンの48勝から42勝に落ちた。カルヴィン・ナッタのタフネスが失われたことは明らかで、さらにケニー・カーのひざの手術が問題を悪化させた。チームはソフトだった。ブーイだけでなく、バンダウェイやパクソンもその象徴だった。それでも、全体として見れば、将来は十分明るく思えた。ブレイザーズの得点力は素晴らしく、4人の選手が平均17得点を超えていた。ドレクスラーはスターになりつつあった。1985年のプレイオフ、ポートランドはタフなシリーズでダラスを下し、次のラウンドでこのシーズンの覇者となるレイカーズに敗れた。昨シーズンはプレイオフの1回戦で敗退している。

一方、ジョーダンはシカゴで平均28.2得点という好成績を残し、スーパースターの卵であることが明らかだったため、当然のことながら、ポートランドでは多少のいらつきがうかがわれた。ところが、その後まず故障したのは、ブーイでなくジョーダンだった。1985年の秋に足を負傷したジョーダンは、2年目のシーズンにわずか18試合しかプレーしていない。ブーイは体調にも問題なく、プロでのプレーも覚えて、成績を11.8得点に伸ばした。これはまだ悪いドラフト指名ではなかった。今はまだ。しかし、やがてブーイは再び左脛骨の痛みに苦しみ始め、足の異常を修正して親指の骨棘を切除する手術が必要とされた。そのシーズン、彼はトータルで38試合プレーした。翌年、事態はさらに悪化する。1986年11月、シーズン開始からわずか5試合で、ブーイはジャンプショットの着地に失敗し、右の脛骨をひどく折った。ドレクスラーは、皮膚を突き破った骨と、もだえ苦しむチームメイトの姿を覚えている。「彼は何度も何度もこぶしをフロアに打ちつけていた」と、ドレクスラーは言う。これはひどい痛手だった。ブーイはこの怪我によって成長を阻まれた。医師団は右脛骨に3本のビスを挿入したが、うちの2本がゆるんだため、さらに再手術が必要になった。
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2008年08月31日

TIP-OFF (70)

半袖では肌寒いくらいの日が続いたり、毎日毎日雷とスコール続きの変な8月が終わりますね〜。何だか最近、大して暑くもないのに夏バテ気味です(のに、夏痩せはしてくれない…)。やっぱり夏は夏らしい方がいいかも。猛暑でなければ…という条件付きで。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第16章:After the Fall - 2


契約から2日後、ブーイはトレーニングキャンプへ参加するためにポートランドにいた。これは特にブレイザーズにとって重要なことだった。なぜなら、昨シーズンは、ドレクスラーが契約を保留してトレーニングキャンプを数週休んだせいで、アジャストするのに予想以上の時間がかかったのだ。ブーイは、すぐにチームに貢献できると語った。ブロックショット、リバウンド、速攻の鍵になるといった、ケンタッキー大学時代と同じような役割を求められると考えたからだ。「自分はボールを奪って得点できる誰かに渡す」と、いかにも彼らしい控えめな目標を立てつつ。

そのわずか5日後、ブーイは故障した。チームメイトとのスクリメージで、相手の肘が肩甲骨の間に当たり、肋骨にひびが入ったのだ。この夏の間、ラムジーはブーイと3回面談し、体力強化のための綿密なウェイト・プログラムを与えた。それは役に立たなかった。そして、ブレイザーズの医師によるドラフト前の7時間のメディカル・テストは、今や絶望的に不十分に思えた。それがブーイのもろい骨を完全に予告できたわけではなかった。ただ、今回の怪我はすぐに回復したが、これからの問題に関して、残念で正確な前兆だった。

世間はしばしば、このケンタッキー大学のセンターがかなりの期間(1シーズンだけでなく)、堅実なドラフトピックだったことを忘れる――ブーイ本人は決して忘れなかったが。2週間後に肋骨骨折から復帰したとき、ブーイのリズムは狂っていたけれど、体と心は意欲的だった。11月初旬のある試合で、彼はカリーム・アブドゥル・ジャバーを相手に恥をかく。前半だけで17対0、最終的に27対4と得点で大差をつけられた。とはいえ、自分は学んでいるところだ、と彼は言った。とにかく時間が必要だ。「自分でもこの結果は気に入らないけれど、カリームがリーグにいる16年間で、他の誰も彼を止めていない。だから、自分には良い仲間がいると言えると思う」と、当時のブーイはクリスチャン・サイエンス・モニターのインタビューで語っている。

それに、僕は自分がこれから上達することも知っている。怪我のせいでトレーニングキャンプに参加できなかったことは、ルーキーのスタートにとって望ましい状況ではない。少なくとも、その間に新しいチームメイトについて知るべきことの一部を学べるわけだからね。今は、プレーしながらそういう知識を身につけなければならないし、同時に勝つことも考えなければならないので、ちょっとためらいがちかもしれない。ルーキーとして最初に感じたことの1つが、リーグ全体のレベルだ。ここまで対戦したセンター全員が、大きくて、力強く、ゲームについて僕より賢明だ。大学時代には、たぶん1人しか7フッターと対戦していないが、NBAには7フッターがゴロゴロいるんだ。

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2008年08月29日

TIP-OFF (69)

日本語がぐちゃぐちゃだけど、文章を整えるほど興味がない。(^^;

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第16章:After the Fall - 1


サム・ブーイは、NBA史における居心地の悪い自分の境遇に、ほんの少しも恥ずかしさを感じていない。自分は史上最悪のドラフト選択などではない、それどころか、あの特別な1984年のドラフトでマイケル・ジョーダンより先に選ばれる権利を得たプレイヤーだと考える方を好む。

「信じられないかもしれないが、私は今でもそれを賛辞として受け取る」と、ブーイは言った。「それに、大方の人の見方もそうではないかと思うんだ。倒れた人を蹴る人間はいないよ。私の足の故障がぶり返すことは誰にも分からなかった。マイケルがあのような選手になることを知る人もいなかった。自分の名前が彼と一緒に語られるのを聞くと、彼より前にドラフトされたことでお世辞を言われている気分になるんだ」

およそ20年間、ブーイは晩餐会やバスケットボールの試合やコメンテーターとして出演した放送で同じことを言い続けてきた。彼は魅力的でも別格でもなかったが、ポートランドでの4年間と10年間のNBAキャリアは間違いなく立派なものだ。問題は最初からあった。契約交渉は予想より多くの時間を必要とし、どちらの側が希望した期間より数週間も長く続いた。ブーイの代理人、ラリー・フライシャーは、ポートランドからFAになったジム・パクソンの代理人でもあり、ブレイザーズが他チームからパクソンへのどんなオファーにもマッチすることができて、複雑なサラリーキャップのルールに拘束されないままでいられるように、まずブーイを先に契約してもらう必要があった。パクソンとの再契約が先になれば、ブレイザーズはサラリーキャップを超過してしまい、ブーイには最低保証額の7万5000ドルしかオファーできなくなる。プロセス全体が定期的にスケジュールされたリーグ・ミーティングによって滞り、フライシャーがアラン・ローゼンバーグ(不思議なことに、まだサンディエゴ・クリッパーズのプレジデントだったブレイザーズの弁護士)との話し合いの要点に入るには、さらにしばらく時間が必要だった。正反対の暗示をほのめかしていたにもかかわらず、フライシャーは、1年契約しか結ばないまま自分のクライアントにフリーエージェント市場を試させたくなかった。ブーイのすねの運命を誰が知るだろう? 複数年の保証は重要だった。「地元の人々にどう思われているか少し心配だった。サムは契約を保留する気か? 秋のキャンプに参加できるのか? と思われていないか」と、ブーイは回想する。「良くない意味で注目されたくなかった。僕自身はいつでもチームに加わる準備ができていたし。ただ、自分の契約を交渉してもらうためにラリー・フライシャーのような男を雇っているわけだから、彼の言うとおりにするしかなかったんだ」

交渉は長引いた。1位指名のオラジュワンと3位指名のジョーダンは、先にヒューストンやシカゴと契約をまとめていた。ブーイには個人のフィナンシャル・アドバイザーがいたことも交渉が長引く一因だった。1984年9月25日、ブーイはようやく、6年約500万ドル(その当時は大金)の契約に合意した。当時、ルーキーとして1年当たりのサラリーでブーイを上回ったのは、オラジュワンとラルフ・サンプソンの2人だけである。「時間の問題だということは分かっていたよ」と、ブーイはレキシントンの自宅でAP通信社に語っている。「僕はとにかく電話が鳴るのを待っていた」
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2008年08月26日

TIP-OFF (68)

例のストーカー女性、「裁判所の命令に従います。もうつきまといません」という誓約と引き換えに、金曜日の夜、10日ぶりに釈放されたようです。で、さっそく、収監は「厳しくて」「非道」であると主張し、今後もジョーダンが自分の息子の父親であることを証明するために戦い続けると断言した・・・シヌマデイッテロ。

Erie Times

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 8


4年間一緒にプレーしたあと、オラジュワンとサンプソンの歩んだ道は大きく異なる。サンプソンの進路は、至るところで嘆かわしい結末につながる厳しい道だった。1988年にゴールデンステイトへトレードされてから、プレーしたのはひどいチームばかりで、膝の不具合も度重なり、失敗など考えられなかったキャリアは精彩を失った。NBAでの最後の4シーズン、サンプソンの平均得点は、6.4から4.2、そして3.0、最後には2.2まで落ち込んでいる。さらに、引退後はもっと悪いことが続いた。近代のNBA選手が現役時代に稼ぐ莫大な金額は、引退後も贅沢な生活を保証するように思わせる。にもかかわらず、サンプソンは、バージニア州北部に住む2人の母親の2人の子供に対して裁判所が命じた30万ドルの養育費を支払うことができず、2005年にリッチモンドで有罪を認めた。判決を下される前の2006年、サンプソンは偽証容疑で起訴されている。検察官によれば、当時46歳のサンプソンは、養育費に関する取調べ中に嘘をついた。2つの会社の相談役や広告契約と、スポーツ用多目的車のオーナーシップによる所得を隠していたとされる。サンプソンは保釈金を払って釈放されたが、旅行を制限された。2006年9月、郵便詐欺への有罪答弁と引き換えに、連邦検察官は偽証と不当な要求の容疑を撤回した。サンプソンは禁固2ヶ月を宣告された。

オラジュワンは慈善事業に忙しく、寄付を通じてヒューストンにモスクを設立する支援もした。2005年2月、そのモスク Islamic Da'Wah Center は、アメリカ政府がアル・カイダや他のテロ組織とつながりがあると主張する Islamic African Relief Agency や Holy Land Foundation for Relief and Development を含むチャリティーに8万ドル以上の寄付をしていたことが明らかになった。オラジュワンはこの報道にがくぜんとし、そのような関係について何の認識もなかったことを表明するために、ヨルダンのアンマンから記者たちと40分の電話会談を行った。彼は、資金は医療と学校を目的とするものだったと述べた。

自分の名前がテロリズムと関わることに結び付けられるのは受け入れがたい。2000年に彼らが資金を集めていたとき、我々はテロリストのことなど何も知らなかった。あの件は、我々の納税申告で公表されたものであり、何も隠しごとはない。極めてオープンで明らかなことだ。アンダーグラウンドなことは何もない。慈善援助組織のための資金集めだった。彼らの仕事やパンフレットを確認したら、長年そういう活動を行っている組織で、政府からも認可されていた。政府の認可があるから、さまざまなコミュニティに基金集めを訴えることもできたわけだ。我々は、募金した金のほとんどが団体の運営費に使われるようなところへは寄付したくない。

電話会見を終えると、オラジュワンは自分の勉強と私生活に引きこもった。2006年8月には、日本での世界選手権に備えるナイジェリア代表チームの指導を手伝うためにヒューストンへ戻り、12名のチームを招待して3日間の個人指導を行っている。オラジュワンは今、アメリカ国民であり、ヨルダンを本拠地とし、アフリカの母国を持つ、3つの大陸の世界人である。


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2008年08月24日

TIP-OFF (67)

スペインの頑張りで決勝戦が面白くなって良かったデス。
ただ、バスケットボールは一度も地上波での放映がありませんでしたね〜。
そりゃ、日本のバスケットボールは弱いけど…。弱いから誰にも省みられないし…。
星野JAPANとか反町JAPANとか、叩かれているうちが華ですよ。(^^;

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 7


オラジュワンの変化は明らかだった。彼は今、以前より大きなプレッシャーにさらされながら、以前より穏やかで頼りになる落ち着いたリーダーだった。フィッチは去った。サンプソンも去った。オラジュワンは、新任コーチのルディ・トムジャノビッチや新しいチームメイトと一緒に、ジョーダンが引退による不在の1994年と復帰したばかりの1995年に2度のNBA優勝を勝ち取る。ヒューストンで17年間プレーしたあと、トロントへ移籍して不遇な1シーズンを過ごし、1238試合に渡るレギュラーシーズン出場で、1試合平均21.8得点、11.1リバウンド、3.1ブロックという成績を残して引退した。

オラジュワンは1993年に帰化してアメリカ市民となり、1996年のアトランタ五輪で米国代表チームの一員として金メダルを獲得している。2002年に現役を引退したあとは、家族をヨルダンへ移して多くの人々を驚かせた。今、ヒューストンへ戻るのは夏の間だけだ。「1996年からヨルダンを訪れるようになり、いつも楽しく過ごしてきた」と、最近になって本人は説明している。

ヨルダンは6週間の集中アラビア語講座に出席するための夏の家だった。私はずっと、引退したあとでチャンスがあれば、フルタイムで勉強を続けたいと言い続けてきた。私の一日は、たぶん多くの人々の一日と同じだろう。子供たちを車で学校へ送り、自分の授業に通う。規則正しく運動して、電子メールをチェックし、宿題をする。また、ヒューストンへ戻り、自分のビジネスを管理するために時間を費やしている。

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2008年08月20日

TIP-OFF (66)

いつのまにか8月も下旬になり、さすがに暑さも盛りも過ぎた感じで、夜はクーラーが要らなくなりました。そうなると少し寂しいのも毎年のこと…。外から帰って、シャワーで汗を流して、ユニクロのルームウェア1枚になって、冷たいダイエットコークをぐびぐびっとか。
また今年も生命満ち満ちる盛夏が終わるかぁ。(とか言ってると強烈な残暑ありがち)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 6


「NBAの歴史は書き換えられた」と、元ダラス・マーベリックス人事担当重役のリック・サンドは言う。「うちは健康なサンプソンに勝てなかった。ツインタワーとの対戦では3勝17敗くらいだからね。しかし、サンプソンは怪我のせいで期待されたような選手になれなかったんだ」
フランチャイズが大騒動の渦中で、オラジュワン自身もまた、手に余る存在だった。「気が荒くて、クレイジーで、テクニカルファウルの多さはリーグ屈指だった」と、ブラインベリーは言う。「彼は『大ばか野郎』だったよ。今にも誰かを殴ってリーグから消えそうだった。MVPへの変身は、何よりも宗教的な目覚めが深く関わっていたと思う」
それは突然の変化でも天啓の変化でもなかった。オラジュワンはゆっくりと、真摯に、自分の家族やカルチャーにふさわしい姿を見出していったのだ。「私はイスラム教徒の家庭で育ち、両親は非常に信心深い人々だった」と、オラジュワンは最近、ヨルダンの自宅でそう著している。

当時の私は、宗教は「年寄り」のためにあると考える年代だった。若い頃は誰でも、英国や米国で勉強することの方に憧れるはずだ。宗教は若者の関心ごとではなかった。信心深い若者は「クールじゃない」と思われた。自分が宗教に真面目になろうと決めたのがいつだったか、はっきりと覚えていないが、プロ入り後数年たってからだと思う。イスラム教は生活様式であり、自分の宗教についてより多くの知識を得る機会があるようになれば、そういうライフスタイルを送って宗教の義務を果たすこともより容易になった。その知識はまた、忍耐と寛容の重要性を教えることによって、私のふるまいにも役立った。

チームをカバーしている記者たちにオラジュワンの変化が最も明らかになった瞬間があるとしたら、それは、彼が「Akeem」という綴りを使わないと決めたときだ。オラジュワンは、ヒューストンに滞在していた両親に新聞で正しい綴りを目にしてほしいと考えた。ブラインベリーが記者室で当日の試合の記事を書いていたとき、ロケッツの当時のPRディレクター、ジェイ・ゴールドバーグがやってきて、居合わせた記者たちに、オラジュワンの名前は「Akeem」でなく「Hakeem」であることを通知した。最初からそちらが正しい綴りだったのだが、オラジュワンは間違った綴りを許していたのだ。そもそも、名前の頭の「H」は非常に弱く、ほとんど発音しない。「Hakeemはコーランが語源で、AkeemはHakeemの発音を間違えて綴っただけなんだ」と、オラジュワンは説明した。「自分もコーランを詳しく勉強するようになって、綴りを訂正することに決めた」
Hakeemはアラビア語で「賢人、博士」を意味する。Akeemには何の意味もない。1991年にスペルを変更したとき、オラジュワンは「大したことではない」と言った。

「ただ原語の綴りを使うことに戻りたいだけだ。Akeemというのは、多くの人が僕の名前を英語に翻訳するときの習慣みたいなものだけれど、ナイジェリアにいた頃も高校の教師にスペルを間違えられたことはあるんだ。ヒューストン大学で最初にAkeemと綴られたときは、別に気にしなかった。だけど、帰郷すると、どうして名前を変えたのか母に聞かれて。ずっと、変更するのはすごく面倒なことだろうと思っていたんだけどね」
面倒なことはまったくなかった。記者たちは「Hakeem」と書き始め、それだけのことだった。変更に苦労したのは、少なくともしばらくは、オラジュワンだけだった。彼はしばらく、習慣で「Akeem」というサインを続けていた。
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2008年08月11日

TIP-OFF (65)

オリンピックだし、お盆ウィークだし、マイケルは完全に消息不明なのに、いつもお越しいただいてありがとうございます。(^^)

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 5


この年のプレイオフ、すでにサンプソンは1年前のサンプソンと同じプレイヤーではなく、消耗の兆候を表し始めていた。1985年3月24日、ボストン・ガーデンでリバウンドに飛んだサンプソンは、着地に失敗してパーケットフロアで頭を打ち、左腰にひどい打撲を負った。それでも、早く復帰してプレイオフに備える必要を感じたサンプソンは、ぎこちなく走り、自分の膝にとって恐ろしいことを始めた。次の2シーズンで彼の膝は悪化し、手術が必要になる。その春、フィッチがメディアを練習から閉め出したため、コートで足を引きずり、スクリメージでオラジュワンに叩きのめされるサンプソンを記者たちが見ることはなかった。

それからのサンプソンは、たまに体調が整った期間を楽しむしかなくなったが、ロケッツは順調に強くなり、翌シーズンは51勝31敗という好成績でシーズンを終えた。1986年5月21日、ヒューストンはカンファレンス・ファイナルの第5戦に114対112で勝利し、レイカーズをシリーズから退けた。サンプソンはマクレーが入れたインバウンズパスを受け、スピンし、ブザーと同時に10フィートのショットを投げた。ボールはリムの手前に当たり、奥にはね返り、手前にはね返り、ネットをくぐった。サンプソンは29得点、オラジュワンは30得点だった。

しかし、この栄光の瞬間にさえ、オラジュワンはまだこの種のプレッシャーに対処する備えができていない兆候があった。マッチアップ相手から敬意を払われている場合、オラジュワンは素晴らしかった。だが、厄介な相手が割り当てられたときは危険だった。今回のハッカーはミッチ・カプチャクだ。試合終了まで5分という場面で、オラジュワンとカプチャクはバスケット下で身体をぶつけ合っていた。そして、オラジュワンは突然、右のアッパーカットを放った。レフェリーとレイカーズのモーリス・ルーカスがオラジュワンを引き離した。両チームの選手がベンチから飛び出した。当時はまだ、そういう行動が自動的に出場停止になる時代ではなかったのだ。サンプソンはモーリス・ルーカスに向かって行った。ロケッツのクレイグ・イーローはジェームズ・ウォージーに向かって行った。ひどい騒ぎだった。この重要な試合で、オラジュワンはカプチャクと共に退場処分になった。ロケッツはサンプソンのおかげで前年のチャンピオンを倒すことができた。NBAファイナルではボストンに敗れたが、ほとんど誰もがロケッツを未来のチームと呼んだ。彼らに必要なのは時間と新しいガードだけだ、と誰もが思った。結局そうではなかったのだが。「まさにあのシーズンが私たちの頂点だった」と、ジョン・ルーカスは言う。

翌年の1986−87シーズン、サンプソンは41試合しかプレーできず、フィッチとのいさかいは醜さを増した。さらにロケッツは、悲劇から傲慢まで、さまざまな問題に襲われる。マクレーのわずか5歳の娘が手術不可能な脳腫瘍と診断された。サンプソンとウィギンスはフィッチが大嫌いで、コーチを解雇させるためにわざと試合に負けているという噂が飛んだ。ピーターソンはコーチの解雇を否定し、契約延長という形でフィッチを援護した。程なく、ウィギンスとロイドがNBAの薬物プログラムに違反し、リーグから追放された。

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2008年08月10日

TIP-OFF (64)

先週も日曜日に休んだので、今週はとりあえず間に合わせてみました。(^^;

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 4


しかし、その春のプレイオフでロケッツが早々に姿を消したのは、サンプソンやウィギンスのせいではなかった。むしろ、オラジュワンの未熟な気性と強烈なプライドが、ユタ・ジャズを相手にしたファーストラウンドのロケッツを運命づけた。ベスト・オブ・ファイブのシリーズは双方2勝2敗のタイにもつれ、最終戦はヒューストンで行われた。決戦の前半終盤、ユタのマーク・イートンが膝を伸ばし、ベンチへ下がるしかなくなったとき、ロケッツの勝利は決まったかに見えた。ロケッツの若い仔馬、オラジュワンとサンプソンは、イートンが抜けて小さくなったジャズと、大ベテランのビリー・ポールツを相手にすることになった。ABAのニューヨーク・ネッツ時代から数えてプロ歴15年になるポールツは、『The Wopper (ワッパー=殴る人)』というニックネームを持ち、スポーツ界の『ジャーニーマン』という言葉を定義したと言ってもいいくらいだ。36歳の今、2つのリーグと5つのチームを渡り歩き、6フィート11インチの身長と真の勇気と相手をイラつかせるテクニック以外は、何一つ天賦の才能に恵まれていなかった。

思ったとおり、第3クォーターのオラジュワンはポールツを相手にせず、このクォーターだけで14得点して、ロケッツを76対67のリードへ導く。しかし、ポールツは狡猾で、少し汚い手を使った。オラジュワンを突き、押し、叩き続ける。オラジュワンは逆上した。「あいつが俺を殴ったんだ。レフェリーの注意を引こうとしたができなかったから、こっちも殴り返しただけだ」と、オラジュワンは言った。「それがジャズをやる気にさせたかどうかは分からない。だけど、俺は4度もあいつに胃を殴られたんだ」

実際、オラジュワンの報復的なパンチは完全にジャズをやる気にさせ、一方でオラジュワン本人は自分のコンパスを失った。ユタは最終クォーターだけで37得点を記録し、ポールツは6得点5リバウンドで試合を終えた。ユタのサール・ベイリーもサンプソンを上回り、ジャズは104対97の勝利を収める。「今日、オールド・ワッパーは自分のサラリーを稼いだね」と、ジャズのフランク・レイデン コーチは言った。これはポールツがプロ生活に別れを告げる春だった。試合後、老いた“疫病神”は、「あいつがパンチをこらえられず、俺がパンチを受け止められること、それはまさに、気持ちと強さで何ができるかということを示している」と、オラジュワンをたしなめた。
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2008年08月08日

TIP-OFF (63)

いよいよ始まりますね、北京オリンピック。
ウサイン・ボルト、タイソン・ゲイ、アサファ・パウエルが激突する男子100mが超楽しみ♪
絶叫実況は興ざめなので、なるべくBSで見たいと思いマス。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 3


ところが、レギュラーシーズンが始まると、突然、フィッチは天才だった。誰がジョーダンを必要だって? かなり楽な日程にも助けられ、ロケッツは8連勝のスタートを切った。開幕戦はさまざまな点で来るべき状況の前触れとなった。サンプソンは試合開始から−−実際には開始前から−−オラジュワンに従った。自分より小さいチームメイトに開幕戦のティップオフを譲ったのだ。センターのポジションでプレーしたオラジュワンは24得点、パワーフォワードのサンプソンは19得点&14リバウンドという好成績を残した。フィッチは上機嫌で、「コートは彼ら2人が一緒にプレーするにも十分な広さがあると思っていたよ」と言った。これはまた、1982年にモーゼス・マローンを追い払った組織のための救済でもあった。

ロケッツの連勝は続き、チーム内は善意で溢れた。オラジュワンはサンプソンについて、「いつでも後ろで自分を守ってくれている」と話した。「自分がブロックに行って失敗しても、彼がリバウンドに入ってくれると知っているから心強い」
8連勝目となるクリーブランド戦は、2人で合計37得点した。今やロケッツはリーグ唯一の無敗チームだった。同じ日、ジョーダンは1人で45得点をあげ、ブルズを4連勝へ導いていたが。NBAが新時代を迎えたことは誰の目にも明らかで、ロケッツはその大きな一翼を担っていた。オラジュワンとサンプソンだけでなく、チームの得点トップ4は全員がシュート成功率5割を超えていた。23歳のロドニー・マクレーは6フィート7インチの典型的なスモールフォワードで、14.4得点、53.5パーセント。25歳のルイス・ロイドは6フィート6インチのスコアリング・ガードで、速攻の場面では最高のフィニッシャーであり、13.1得点、52.6パーセント。ロバート・リード、ミッチェル・ウィギンス、ライオネル・ホリンズを有するロケッツは選手層も厚かったが、いかんせん、ポイントガードに大きな問題があった。ジョン・ルーカスは有能なポイントガードだったが、ドラッグ問題の渦中にあった。

コカインの陽性反応を示したルーカスは12月にチームを解雇され、2月下旬に復帰した。ロケッツはルーカスの不在で不調に陥った。1月には4連敗を記録し、通算で21勝18敗という平凡な成績にまで落ちている。爆発的なスタートのあとは13勝18敗だったのだ。その後、彼らはいくらか持ち直し、48勝34敗でシーズンを終えたが、フィッチはもう上機嫌ではなくなった。そして、腹を立てているフィッチは決して感じの良い人物ではない。彼は、素晴らしいゲーム・コーチ、精力的な戦略家、働き者として知られていたが、誰とでも上手くいくタイプではなかった。フィッチは、断固とした監督で、支配欲が強く、1983年にセルティックスの後任となったK.C.ジョーンズのような選手に好かれるコーチとは言えなかった。フィッチはその年、NBA優勝を達成してからわずか2年でボストンを解雇されている。セルティックスは経験豊かで自主的なチームだった。刺激を与えるスピーチなど必要なかった。何人かの選手がフィッチとの限界に達していた。そして、ここヒューストンでも、フィッチは相手を腐らせる自分のやり方を変えなかった。

フィッチは地元紙の報道に過敏だった。多くのコーチも、選手たちがメディアに不平を言うことを背信の一つの形だと感じたが、フィッチはさらにもう一歩踏み込んでとらえた。前シーズン、フィッチは、練習が長過ぎると不平を言った自分の記事を声に出してチームメイトに読んで聞かせるようサンプソンに命じた。今回、フィッチはウィギンスを立たせ、地元記者ロバート・フォーコフの記事を朗読させた。ウィギンスが、チーム・オフェンスはありきたりで、停滞しすぎているとコメントした記事をだ。サンプソンと同じように、ウィギンスも傷つきやすい人間だった。彼は1987年に薬物問題でリーグから追放される。フィッチは性格の弱さが我慢ならず、サンプソンやウィギンスのような選手の弱さを本能的に感じ取った。屈辱は必然的に続いた。


――ビル・フィッチと言えば、フィル・ジャクソンの大学時代の恩師で、フィルが最速で500勝を達成したゲームの対戦相手でもあり、試合後にフィルを祝福する姿なんて好々爺みたいだと思ったんですけど、実は大違いだったんだ…。(^^;
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2008年08月04日

TIP-OFF (62)

昨日はもう、だるくて眠くて、1日中ゴロゴロ…プチ熱中症か?という感じでした。
今日は雷がゴロゴロだけど、一向に涼しくならん〜。
あんまり暑いから、日本語が変でも気にしない、気にしない。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 2


ロケッツのプレシーズンの最初の問題はサンプソンをパワーフォワードへ押しやることだったが、サンプソンの協力に対して、チーム上層部からねぎらいの言葉はほとんどなかった。譲歩するのが当然のように考えられていたのだ。「私は当時、もしアキームが先にここにいて、後からラルフがドラフトされたとしたら、アキームは同じことをしなかっただろうと主張したものさ」と、ヒューストン・クロニクルのフラン・ブラインベリー記者は言う。「人々は、ラルフがどれほど優秀だったか、ということを見落としている。にもかかわらず、彼は他のポジションへ転向することを嫌がらなかった」
それから20年以上たった今でも、オラジュワンはサンプソンのポジション転向を大したことだと思っていない。「ラルフの転向は犠牲などではないよ。私はセンターのポジションとパワーフォワードのポジションに違いがあると思わないのでね。どちらもポストのポジションだ。我々のコンセプトは、『ポジション』に基づくのではなく、『ツイン・タワー』という構想だった。相手にとってのダブルトラブルだ。ラルフと私はずっと良い関係を続けてきたし、今は連絡を取り合っていないが、ずっと親友だと思っている」

プレシーズンが始まった頃、オラジュワンとサンプソンのコンビはまだほとんど効果がなかった。オラジュワンは、セルティックスのロバート・パリッシュやスパーズのアーティス・ギルモアに歯が立たず、いつもサンプソンのヘルプを期待していた。「僕は彼を尊敬する。僕にはどうしようもない」と、当時のオラジュワンは語っている。ある日、ビル・フィッチ コーチが、チーム練習にビル・ラッセルを招き、ビッグマンにスピーチしてもらおうと考えている、と話したとき、オラジュワンはぽかんとコーチを見つめた。彼はラッセルのこともレッド・アワーバックのことも知らなかったのだ。いつもサンプソンにイラついていたフィッチだが、この時ばかりはオラジュワンを蹴り出した。とは言え、フィッチは、ロケッツのシステムに混乱状態のオラジュワンをかばい、その一方で、サンプソンにはほとんど腹を立てていた。昨シーズンの新人王を獲得した同じサンプソンにである。プレシーズン終盤、フィッチは、すでにシカゴでスーパースターと認められつつあるマイケル・ジョーダンを選ばなかったことに怒りを覚え始めていた。ニューヨーク・タイムズとのインタビューでは、オラジュワンを指名した決定をサンプソンのせいにしている。

ラルフの準備ができていれば、マイケル・ジョーダンという選択を考えたかもしれない。彼がそうでなければならない、タフで、真剣で、不屈のセンターである準備ができていれば。本人の責任でないことは分かっている。彼を高く評価したのは世間だ。そして、それは間違いだった。しかし今、彼はもうルーキーではないんだ。軽く尻を叩いて、「よしよし」と言ってやる時期は過ぎた。もう一人前の男なんだ。彼は支配しなければならない。ミスをなくさなければならない。普通、スーパースターというのは、ひどい出来が平均的なプレイヤーくらい良いものだ。ラルフは違う。あいつのひどい出来というのは、本当にひどいんだ。


理由はもう一つあった、と、現在のフィッチは言う。ドラフトでオラジュワンを選ぶことが重要だった理由。ジョーダンの商業的成功を考えれば、とりわけ馬鹿げて聞こえる理由だ。「我々はビジネスをしている。観客席を埋めなければならない」と、フィッチは言った。「ジョーダンを指名していたら、(ロケッツ・オーナーの)チャーリー・トーマスはヒューストンを去る羽目になっただろう」

オラジュワンとサンプソンの縁組は機能する必要があった。そして、サンプソンはオラジュワンよりもさらに悪戦苦闘していた。足首を痛めた上、パワーフォワードという新しいポジションでボールをもらうためにはどこへ動けばいいのか理解することができなかった。速攻でのプレーは素晴らしかった。しかし、ハーフコートのセットオフェンスになると、極端にウィングへ寄りすぎて、自分のシュートレンジより外からジャンパーを撃つ羽目に陥った。彼はオラジュワンの邪魔をしないように気を使いすぎた。まるでポイントガードのようなプレーで、それもヘタクソなポイントガードのようなプレーで、自分を批判する人々を正しく見せてしまっていた。
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2008年07月31日

TIP-OFF (61)

若い頃のオラジュワンはしょーもなかったんですね〜へ〜。
御大みたいなオラジュワンしか知らないから。

TIP-OFF : Filip Bondy(著) Published by Da Capo Press
第15章:Not Twins at All - 1


記憶はバラ色に美化されている。今はコーチを引退したビル・フィッチが、オラジュワンと過ごし始めた頃を振り返るとき、ヒューストン大学からヒューストン・ロケッツへの移行は、地理学が示すとおりにスムーズだったと思い起こされるのだ。「まるで、まだ大学にいるかのように、軽々とドロップ・ステップをやってのけたものさ」と、フィッチは言う。「彼は私たちが考えていたよりずっと優れた選手だった。そして、私たちは非常に優れた選手を想像していたのだ」
フィッチはいつもオラジュワンを偏愛し、サンプソンの場合とは大違いなほど、7フィートのナイジェリア人の初期の愚行をあっさり許した。かくのごとく、フィッチにとってのオラジュワンは、パット・ライリーにとってのマジック・ジョンソン、フィル・ジャクソンにとってのマイケル・ジョーダン、ジェフ・ヴァン・ガンディにとってのパトリック・ユーイングだった。フィッチは自分の荷馬車をオラジュワンという大きな馬につないだのだ。ただし、1984年の9月、6年約630万ドルの契約を結んでトレーニングキャンプへやって来たとき、オラジュワンはまだ、そのような荷物を運ぶ準備がまったくできていなかった。実のところ、ドロップ・ステップの定義さえよく知らなかった。大学時代のコーチ、ガイ・ルイスは正しかった。オラジュワンは、もう1年キャンパスで過ごした方が良かったかもしれない。

とにかく、かなりの調整が必要なのは確かだった。それはコート上のことだけに限らない。当時のオラジュワンはパーティー大好き人間だった。8月に契約を結んだあと、メルセデスの新車でヒューストンのあちこちを遊び回ることに自分の時間のほとんどを費やし、ジムでトレーニングに励む時間は本当に短かった。友人たちは習慣を変えるように勧めた。オラジュワンは友人たちに、自分のメルセデスに同乗することを勧めた。その結果、ロケッツへやって来たオラジュワンは、さっそく傲慢のつけを払うことになる。NBAの選手たちは、テレビで見て想像していたよりずっと速かった。彼はもう、カレッジ時代のように「ダンク、ダンク、ダンク」というわけにはいかなかった。オラジュワンはすぐ、バツの悪さを避けるためにはかなりの練習が必要なことを思い知る。そういう屈辱を回避することが、若くて誇り高いオラジュワンにとって、大きなモチベーションの一つになった。


――マイケルのことじゃないと少しずつしか進みませんデス。(^^;
posted by まき at 21:12| Comment(2) | TrackBack(0) | TIP-OFF | 更新情報をチェックする
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