2006年03月10日

Sports Illustrated(完)

※すっかり忘れてた。完結しておきまする。


<そのころ>
98年のプレーオフへ向かう中、前2シーズンにシカゴを取り巻いていた無敵のオーラは、すでになかった。レギュラーシーズン終盤、ブルズはもう意志の力だけで勝つことは期待できない、疲れ切ったチームのように見えた。もしシカゴが8年で6度目のチャンピオンシップを獲得するつもりなら、一部のオブザーバーたちにはもはや不可能と思われた方法で、自分たちのゲームを高めねばならないだろう。

プレーオフの最初の2ラウンドで、シカゴはニュージャージー・ネッツとシャーロット・ホーネッツを1敗しただけで容易に退けた。けれども、インディアナ・ペイサーズと対戦したカンファレンス・ファイナルは、ゲーム7まで延長された。それは、ブルズが91年に初優勝してから、わずか2度目のことである。シカゴはシリーズ最終戦を88−83で勝ったが、その夜のいつまでも残るイメージは、最終ブザーの後にあった:勝利を祝うより、息を切らせ、前かがみになってショーツを引っ張るMJの姿。オッズメーカーはファイナルでジャズよりブルズを優勝候補にしたものの、ブルズ王朝は崩壊寸前だと誰もが感じざるを得なかった。

【MICHAEL'S MIRACLE】

SI980615 1998年6月15日号掲載

その伝説に何かを付け加えることなど不可能に思われたが、マイケル・ジョーダンはいつもどおり見事な方法で、ブルズの王冠に6つ目の宝石をちりばめた。

BY PHIL TAYLOR

彼はミラクル・ワーカー。あまりにも優れていて現実には思えない劇的な離れ業を行う男。もしマイケル・ジョーダンが架空の人物なら、彼のキャリアがどこかの作家の空想の産物だったら、真に受けるには素晴らしすぎるものとして退けられただろう。しかし彼は実在する。ブルズの歓喜と、対戦相手の永遠に続く落胆にとって。

もちろん、他の選手たちもこの8年で6度目のシカゴの優勝に大きく貢献した。スコッティ・ピペンは、おそらくチームスポーツ史上最も偉大な脇役だ。フィル・ジャクソンはいつものように、ブルズを取り巻く絶え間ない馬鹿騒ぎを落ち着かせる影響力だった。デニス・ロドマンは、数々の不品行や奇矯さにもかかわらず、常に重要なリバウンドを囲い、一服の熱狂を注入するように見えた。そして、サポーティング・プレーヤーたちは -- トニー・クコッチ、ロン・ハーパー、ルーク・ロングリー、スティーブ・カー、スコット・バレル、その他 -- 不満を口にせず、高いプロ意識を持って、自分たちの役割を務めた。

だが、ジョーダンこそ、ブルズがもう1度チャンピオンである原動力だ。ユタ・ジャズに対するファイナルのゲーム6でチームを救った目覚ましいプレー、カール・マローンからボールを奪い、コートの反対サイドへドリブルし、5.2秒でジャンパーを放ち、シカゴに87−86の勝利ともう1つの優勝を与えたプレーは、ただ最新の適例に過ぎなかった。「彼はマイケル・ジョーダンだ。他に何が言える?」とジャクソンは言った。「彼は実在のヒーローだ」

しかしながら、彼らがファイナルに入ったとき、ブルズは知っていたはずがない -- ではないか? -- ジョーダンが自分たちのために、こんなお伽話のような期待に応えることを。彼らが確かに知っていたことのすべては、このジャズという、よく休養し、自信に満ち、レギュラーシーズンの対戦で2度ともブルズに勝ったおかげでホームコート・アドバンテージを有するチームとのファイナルが、恐らく今までで最も困難な相手に直面したファイナルになるということだ。


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2006年02月04日

Sports Illustrated(13)

<そのころ>
1997−98シーズンのスタートは、ブルズ王朝にとって終わりの始まりと見られていた。スコッティ・ピペンはトレード要員だと噂された。フィル・ジャクソンコーチは繰り返し、経営陣に呼び戻されることは予想していないと述べた。そしてジョーダンは、ジャクソンが去るならシカゴのためにプレーしないと断言した。

ブルズは開幕から8勝7敗で、ゲートから勢い良く飛び出さなかった。それでも、オフシーズンに足を手術したピペンが1月に復帰してからは活気づき、ジョーダンは10度目の得点王(28.7)を勝ち取るための出遅れを取り戻し、ブルズは後半の41試合で33勝を記録した。シーズンが終わってみると、ディフェンディング・チャンピオンは62勝を挙げ、過去3シーズンで記録した82.5%の勝率は、1983年から86年までのボストン・セルティックスが持つNBA記録(78%)を更新した。

シーズンを通して1つ変わらなかったことは、ブルズが町にいればいつでも大入り満員だったということだ。これがジョーダンの最後のシーズンになるだろうという見込みは、惑星上で最も人気が高いアスリートの人気をさらに高めるという、起こり得ないようなことを実現させた。

【LAST CALL?】

SI_980511 1998年5月11日号掲載

ブルズはほとんど下降のサインを見せなかったけれど、90年代を代表するチームが終了の準備をしているという感覚は消えることがなかった。

BY RICK RELLY

それは普通のバスなのに、子供たちがしがみつく。大の男が車体をたたく。女性たちがキスをする。ある子供は、ボンネットの飾りになろうとしてバンパーに飛び乗った。このバスが行くところならどこでも、自動車のキャラバンが追いかける。今シーズンのフェニックスの一夜、叫び声をあげるティーンエイジャーでいっぱいの15台ほどの車が、シェベットを先頭にして、民間空港の滑走路までバスを追跡した。おい、若者たち、「不法侵入」という単語を綴れるか?

このバスは、アメリカのひどいスナップ写真の1番のターゲットだ。ちょうど今も、どこかで誰かが、有名人の顔など映っていない、何の印もない貸し切りバスの1ダースの写真を見るために、プリントの袋を開けている。プロでさえそうだ。パリでは、パパラッチがオートバイでバスを追いかけ、黒く塗られた窓の写真を狂ったように撮りまくっていた。

このバスの周囲に一種のパニックが渦巻いている理由は -- 結局のところ、その中にシカゴ・ブルズがいるから。もし終わりが来るなら、もし1990年代の最高のスポーツ王朝が解体しつつあるのなら、人々は、そのすべてが崩壊する前に手を伸ばし、マフラーをもぎ取りたいのだ。3月17日のインディアナポリスでは、警備されたホテルのロビーから魔法のバスまで4フィート -- 4フィート -- 歩くブルズを目撃するために、大勢のファンがカンタベリー・ホテルの外に集まり、警察が道路を封鎖するはめになった。約1時間も。そんなとき、熱狂の中心にいるマイケル・ジョーダンは、バスの後部座席に座り、微笑を浮かべて言う。「OK、僕らも君たちを愛しているよ。でも今は家へ帰る時間なんだ」

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2006年01月15日

Sports Illustrated(12)

※デレク・ジーター主催のセレブリティーゴルフを取材してくれないかと、フロリダ州タンパの地元紙に期待していたんですけど、どうも記事は載っていないみたいでガッカリ。しょうがないので、久しぶりにこれでもやっておきます。めっちゃ長いので、見直しも思うように進まず、日本語的にあまり美しくありませんが〜〜。



<そのころ>
1995年の春、ジョーダンを取り巻く復帰の噂は、ついに現実のものになった。17ヶ月の不在を経て、ジョーダンはバスケットボールに戻った。3月2日にホワイトソックスのスプリング・キャンプから立ち去ったマイケルは、19日のペイサーズ戦に加わり、19得点、6リバウンド、6アシストを記録している。「結局」と彼は述べた。「要するに僕は、離れているにはあまりにもゲームを愛しているという結論に達した」

けれども、45番(23番は94年11月に永久欠番になった)という新しいユニフォームの背番号から、インディアナポリスでの7−28というシュート確率まで、ジョーダンは引退前と同じプレーヤーには見えなかった。いつかはそうなるのだろうか? 復帰から5試合目、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの忘れがたい夕べに、その質問の答えは出る。95年11月、SIのアレクサンダー・ウォルフは、重要な分岐点となった夜を振り返った。

【BROADWAY REVIVAL】

SI_951113 1995年11月13日号掲載

復帰からわずか数日後、ジョーダンはマディソン・スクエア・ガーデンを明るく照らし、1度もゲームを去ったことなどないかのようにプレーした。

BY ALEXANDER WOLFF

そのような場所は他にない。そのような栄光、プライド、歓喜に彩られた場所は。それは男の奥深いところに手を置く。彼は恍惚に酔う。若返り、誇りで満たされる。自分が滅びるはずなどないと感じる -- ニューヨークについて、トーマス・ウルフ

今年の3月27日、春の香りに満ちた月曜日の午後、マイケル・ジョーダンはマンハッタンへ到着し、プラザホテルにチェックインした。その夜、彼はNBCレポーターのアーマド・ラシャドを含む4人の友人と、ロバート・デ・ニーロが経営するトライベッカ・グリルで夕食を共にする。古くからの友人たちが、ジョーダンをホテルの部屋の牢獄 -- 習慣的な-- から解放しようと決めたからだ。ブルズがマディソン・スクエア・ガーデンでニックスと対戦する翌日の試合については、それとなく話題になるだけだったが、ラシャドはずっと、ジョーダンから感じるものがあった -- 何か言いたいことがあるなら、ニューヨークこそそれを言うべき場所だと、ジョーダンが知っていることを感じ取っていた。

ホテルへ戻ったのは真夜中過ぎ。CBSのパット・オブライエンが、予定のインタビューのために待っていた。ジョーダンはすでに相手を3時間以上待たせていたのだが、オブライエンは質問を練りながら時間をやり過ごしていた。「ファンはいつ爆発を見られるのでしょう」と彼は尋ねた。「例えば、55得点ゲームのような?」

「それは単に時間の問題だよ」とジョーダンは答えた。

ジョーダンは過去の自分と比較されることに慣れていなかった。1993年10月を発端に17ヶ月もゲームから遠ざかるまで、大衆は常にその好奇心を先へ先へと進めて質問した。「“次”は何をするのだろう?」しかし、今回の復帰によって、大衆のイマジネーションは今、後ろ向きに働き始めた。ジョーダンへの通常の質問を言い換えることは、おじけづくような心理的重力加速度を伴うに違いない:彼はまたああいうことができるのだろうか?

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2005年12月11日

Sports Illustrated(11)

今日も録画しておいたBSのセレモニーを見たので、まだ現実に戻れない気分です。
ブルズがワシントンで勝ったことを知り、あれ?今日ってNBAやってたんだ…みたいな。(苦笑)
でも〜NHKはもう少しセレモニーを長くやってほしかった。スピーチに字幕をつけてくれなかったし。nba.comのNBA TVでも見られるみたいなので、新しいPCを買ったら見てみようっと。(音声のみ聞くことができましたとさ…とほほ)

今日はサム・スミスがピペンとBulls dynastyのメンバーにささげたオマージュを訳したかったんですけど、全然手がつかなくて、Sports IllustratedシリーズをUPしておきます。私からピペンへのトリビュートということで。
ちょうど、マイケルもスピーチの中でピップは自分の"brother in arms"(戦友)と言ってましたから。

MJPip_hug

マイケルと一緒でなかったら、自分がどんなプレーヤーになっていたか、僕には分からない。それを知らずに済んだことが嬉しい -- スコッティ・ピペン/1992年2月

【BROTHERS IN ARMS】

BY JACKIE MACMULLAN

彼らの別々の道のりが1つになった正確な瞬間というものはない。スコッティにはすでに分かっていたから、マイケルはもうスコッティに状況を説明する必要がなかった。そのプロセスは実際に、失意と勝利を経て、新たなチャレンジと決意の新たなテストを経て、マイケルの不成功に終わった野球の実験とスコッティのプレーオフの苦悩を経て、進化した。彼らが共有した経験から、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピペンは、互いについての懸念を、王朝を確固たるものにした確実性に変えることを学んだ。

プロバスケットボールのゴールは明確だ。ゲームはチャンピオンシップにつながっている。そして、シカゴが炉棚に追加したそれぞれのトロフィーが、ジョーダンとピペンの偉大さを改めて言明している。けれども、その優勝への過程で、ブルズの2人のスーパースターはたいてい、自分たちがどれほど密接に結びつくようになったか認識するには、あまりにも目前の課題に没頭していた。けれども、歴史は注目し、ベイラーとウエスト、ラッセルとクージー、マジックとカリーム、バードとマクヘイルを結び付けたように、彼らを永遠に結び付けるだろう。ジョーダンとピペンは、多才さと驚くほどの運動能力を共有したが、同様にゲームの無形のものを共に楽しむことも学んだ。彼らが互いの強さから得るようになったこと -- そして、互いの弱点を隠す方法 -- こそ、彼らをそれほど美しく見せたのだ。

アスリートにとって、チームメイトの傾向を理解し、無意識にその動きを予測するというレベルまで相手を知るのは、まれな、素晴らしい経験である。ピペンとジョーダンにとって、それは当たり前のことになった。「マイケルと僕が同じチームにいるということは、そこを支配的なチームにできる全面的な脅威を意味する2人の男が一緒にいるということだ。なぜなら、僕らは両方のエンドでハードにプレーするからね」と、1998年のプレーオフの最中にピペンは言った。「MJがコートにいない時、僕はオフェンスでよりアグレッシブになる。彼がいる時は、ディフェンス面でよりアグレッシブになる。自分が彼のために状況をクリエイトできると分かっているから」

ジョーダンは言った、「双子とプレーしているようだ」

常に、マイケルはスターとして、スコッティは相棒として記憶されるだろうけれど、ブルズ王朝の晩年に1つのことが明らかになった:この2人のプレーヤーはお互いを必要とした。事実はシンプルだ:マイケルはスコッティ抜きで1度もNBAのチャンピオンリングを獲得していない。そして、スコッティはマイケル抜きで1度も勝っていない。一緒に、彼らは成功した。離ればなれで、彼らは成功していない。

そのパートナーシップを、自然な同志愛というより必要な計略だったと思う人々がいる:2人のスターが、友情の価値を認識するのに十分抜け目なかったのだとか、自分たちのイメージや金銭上の幸福のためにそう計ったのが真相だとか。しかし、彼らの純粋な愛情や友情を疑う者は、最後2年のポストシーズンの彼らを見るがよい。97年のファイナル、ゲーム5の最後、病気でふらふらになり、38得点のパフォーマンスで倒れそうになったジョーダンをコートから連れ出すピペンの姿を。続く98年のファイナル、決戦のゲーム6 -- 耐え難いほどの背中の痛みにもかかわらず、ピペンがゲームの後半で無理矢理コートに戻り、そして、ジョーダンが最後にゲームを決した後 -- ユタのデルタセンターのコートで涙ながらに抱き合った2人の姿を。

ジョーダンとピペンは史上最高のデュオか? それはこれから何年も討議されるだろうが、彼らが一緒に過ごしたキャリアの驚くべき記録 -- ポストシーズンを含めて631勝229敗(勝率7割3分4厘):6度の優勝 -- は、それを強く主張する。けれども確かなことは、2人のスーパースターチームメイトが、ジョーダンとピペンのようにオールラウンドなゲームに全力を尽くすことはめったになかったということだ。ジョーダンは言う、「ディフェンスのプレデターであるにはどうしたらいいか理解する選手は、ほんの一握りしかいない。スコッティは初日からそれに全力を傾けた。その姿勢が僕に彼は特別だと教えたんだ」

ジョーダンが一緒にフロアにいれば、ピペンはNBAで2番目に良い選手だが、ジョーダンがいなければ単に良い選手の1人に過ぎない、とはしばしば言われる。けれども、2人のパフォーマンスを見た誰もが悟るようになったのは、マイケル・ジョーダンのようなレジェンドでさえ、1人でそれを達成することはできなかったという事実だ。
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2005年12月02日

Sports Illustrated(10)

CAPTER 3: THE RETURN
【REINVENTING HIMSELF】

かつて備わっていた空中浮遊力は、すっかりではないが影をひそめ、ジョーダンは取り戻した熱意と新たな武器で2度目のNBAキャリアに乗り出した。

BY PHIL TAYLOR

950319

ただマイケル・ジョーダンだけが、カムバックと同時にフェイドアウェイすることができた。17ヶ月の引退の後にブルズへ戻ったとき、ユニフォームの23番が一時的に45番に替わったせいだけでなく、ジョーダンが異なるプレーヤーになっていたのは明らかだった。彼はもう、重力を法則というより気配にしてしまうバスケットボールのスタントマンではなかった。32歳という年齢は、壮観であるより効率的である時期になったと決意して、自分のゲームを抑えていた。それはほとんど、復帰初戦の最初の瞬間から明白だった。ジョーダンは新しいスタイルを発表する準備ができていた。その特徴は、フェイダウェイ・ジャンプショットだった。

彼はバーミングハム・バロンズのチームメイトとのピックアップゲームで、そのシュートを磨いていた。うっかり自分を傷つけかねないアマチュアたちを相手に、バスケットへドライブする危険は冒そうとせず、身の安全を守るために、ターンして、リリースのときに後ろへ下がり、相手の上からシュートすることで満足していた。

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2005年11月24日

Sports Illustrated(9)

<そのころ>
プロバスケットボールを引退して4ヶ月後、ジョーダンはシカゴ・ホワイトソックスとマイナーリーグ契約を結んだ。高校時代(それが野球をやった最後の時期)でも2割8分の打者にすぎなかったジョーダンだが、大リーグは手の届くところにあると信じていた。1994年4月8日、彼は2Aのバーミングハム・バロンズでデビューするが、2三振、1フライの3打席ノーヒットに終わる。

悲しいかな、ジョーダンはすぐに、マイナーリーグのカーブを打つことさえ、フェイダウェイを撃つより簡単にはいかないことを理解した。バロンズでの1年目、彼の打率はわずか2割2厘、436打席で三振は114回を数えた(けれども、2Aで50打点、30盗塁をあげた6人しかいない選手の1人でもあった)。ホワイトソックス経営陣にとって、ジョーダンのバットスピード不足に目をつぶるのは簡単なことだった:ヒズ・エアネスが行くところならどこでも、驚くほど多くのファンが後に続いたから。1994年の遅く、ちょうどMJがアリゾナ秋期リーグ期間を終えたとき、SIのトム・バーダッチがジョーダンのベースボール・オデッセーを検討した。

【TRYING TIMES】

SI_941212 1994年12月12日号掲載

野球選手のジョーダン、は魅惑的な光景だったが、彼のメジャーリーグ展望は良く見てもおぼろげだった。

BY TOM VERDUCCI

黄昏が不意に砂漠を訪れる頃、ダークグリーンのレクサスSC400が、人けのないスコッツデール・スタジアムの1塁側ダッグアウトの前に停まっている。その車は、ドライバーの忠実な従者によって、指定された時刻に指定されたこの場所へ届けられた。数ヤード離れただけの、ダッグアウトの狭い階段を降りたところにある緑のドアの向こうでは、歴史上最も有名なマイナーリーグのシングルヒッターが、2ヶ月間のチームメイトに別れを告げている。そのクラブ、アリゾナ秋期リーグのスコッツデール・スコーピオンズは、まだ翌日に最終戦を残していたのだが。

「彼が去ろうとしていることすら知らなかった」と、ヒズ・ロイヤル・エアネス、マイケル・ジョーダンを、バックパックにインスタントカメラを詰め込んだ小学生やら、フェルトペンで武装したニキビ面のティーンエージャーやら、おかしな帽子をかぶった白髪の退職者たちやら、もろもろのアリゾナ秋期リーグの危険から守るように配属された2人のボディガードのうちの1人、ラリー・エンジェルは言う。「彼はただ別れを告げ、そして -- カメラ、ズームして! -- 去った」

メモラビリア・コレクター、忠実なファン、スターに夢中な子供たちのいつもの一群は、スタジアム駐車場へ続くクラブハウスのドア、スコーピオンズ関係者の多くが使う入り口の外で張り込んでいるが、ジョーダンの影を見ることさえないだろう。

球場の内部では、ジョーダンがレクサス -- 自分たちの高級車を運転したという証明書にサインすることだけを求めた親切なスコッツデール・レクサスが無償提供した -- に乗り込んで、アクセルを踏み、フィールドを取り囲む砂利敷きのコースに沿ってスポーツクーペを運転する。ホームプレートの後ろを滑るように移動し、3塁側ダッグアウトを過ぎ、左翼フェンスの前を通り、センターフェンスのオープンゲートをくぐり抜ける。頭上でアリゾナの空がピンクと紫にゆっくり溶けてゆくとき、彼は出口タラップを登った。

行く、行く、いなくなった。それは野球で最もまれな光景の1つだ:マイケル・ジョーダンが野球場を去る。

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2005年11月14日

Sports Illustrated(8)

<そのころ>
ブルズがスリーピートを目指すプレーオフ期間中に、1つの話題が巷を席巻した:ジョーダンのギャンブル問題疑惑。イースタンカンファレンス・ファイナルの最中、ニューヨーク・タイムズは、ジョーダンがゲーム1とゲーム2の合間の深夜に、リムジンを利用してアトランティック・シティーのカジノへ出かけたことを暴露した。その1週間後、一時はゴルフのパートナーだった人物が、ジョーダンはゴルフコースで莫大な金を失ったギャンブル中毒だと主張する本を出版した。

それでも、物議がジョーダンの焦点をぼかすことはなかった。ニューヨークを6試合で葬った後、シカゴはサンズのホームコートで最初の2ゲームを連取する -- ファイナル史上、ロードチームがシリーズのスタートで連勝するのは初めてのことだった。トリプル・オーバータイムにもつれたゲーム3ではフェニックスが立ち直り、SIのジャック・マッカラムは劇的な結末までシリーズを追った。

【SIMPLY THE BEST】

SI_930628 1993年6月28日号掲載

圧倒的な輝きを放つファイナルのパフォーマンスで、ジョーダンはゲームの頂点にある自らの地位を改めて示した。

BY JACK McCALLUM

少しの間、彼が過去に賭け金の高いナッソー(※ゴルフの試合形式)をしたことを忘れてください。2年前、ペンシルベニア・アベニューの美しい19番ホール(※ホワイトハウスのローズガーデン)へジョージ・ブッシュに会いに行ったことにしてください。親友のチャールズ・バークリーと同じくらい口が達者で、人好きがして、感情のまま振る舞うように求めないでください。コマーシャルによって作られたキャプテン・アメリカのイメージに恥じない行動を期待しないでください。今はこれだけを考えてください:マイケル・ジョーダンは、この惑星の歴史の中で、ただ最高のバスケットボール・プレーヤーですか?

ジョーダンを、人として、ロール・モデルとして、スニーカーのセールスマンとして、あるいはギャンブラーとしてさえ、どう思おうと、あなたはその質問の答えを知っている:イエス。明確なイエス。

それは疑う余地なく、シカゴ・ブルズがフェニックスで行われたファイナルのゲーム6で、驚くほど回復力に富むサンズを相手に、99−98のスリリングな勝利を収めてゴールの向こうへよろめき倒れ、NBA3連覇への長く困難な旅を終えた日曜日の夜に、証明された。史上初の3年連続ファイナルMVPを獲得したジョーダンは、ちょうどブルズの前2回の優勝でもそうだったように、最初から最後まで、シリーズ全体に影響力を及ぼしていた。スリーピート? ジョーダンがいなければ、ブルズはワンピートもできなかった。優勝を決めた日曜日のパフォーマンスはその典型である -- 44分、ゲームハイの33得点、8リバウンド、チームハイの7アシスト。勝利に関する1番思いがけない事実は、ジョーダンではなくジョン・パクソンが、残り3.9秒で全く正確なスリーポイントのウィニングショットを決めたことだ。

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2005年10月19日

Sports Illustrated(7)

※あの〜日本語にしても意味不明なところが何ケ所かありますが、これ以上は逆立ちしても解りません・・・ま、大筋には影響ないと思うのでテキトーに流してくださいまし。(^_^;


<そのころ>
世界最高のバスケットボール選手について意外な事実を捜す者なら、誰でも行く場所の1つが、ノースカロライナ州ウィルミントンだ。その海岸近くの町で育っているとき、我々が今マイケル・ジョーダンとして知る人物は、ただのマイクで、なかなか自分が気に入るほど早く成長できなかった。5フィート9インチの2年生だった彼は、自分より長身のクラスメイトを好んだレイニー高校の代表チームからカットされた。けれども、6フィート2インチの3年生になって、ジョーダンはようやくブルーとゴールドの代表チームのジャージを手に入れ -- その時も23番をつけた -- 彼をウィルミントンの最も有名な輸出品、最も有名な地元名士(元NFLのクォーターバック、ロマン・ガブリエルとソニー・ヤーゲンセン、およびハーレム・グローブトロッターズのミードウラーク・レモンもそこで育った)にするだろう道を歩み始める。

後にマイケル・J・ジョーダン・ジムと改名されるレイニージムで、ジェームズ・ジョーダンとデロリス・ジョーダンは息子の試合を残らず観戦した。レイニー・バッカニアーズと若き天才だったジョーダンを見るために立ち寄ったことのないウィルミントンの住民は、今それを間違いなく後悔している。

【A KID FROM CAROLINA】

SI911223 1991年12月23日号掲載

スーパースターを作るものは? 時としてそれは、典型的なホームタウンの典型的な少年時代に過ぎない -- 途中で少しだけ特別な努力があれば。

By CURRY KIRKPATRICK

りんごは木から遠くへ落ちないのだから、マイケル・ジョーダンが何らかの輝かしい現象などではなくて、むしろ、彼が1度もそれたことのない、家族や友人やルーツに根ざした、単なる自然界の光る一断片だということはありえようか? 一言で言えば、イエス。ホームボーイという言葉が、彼のために考案されたのでなければ、確かにそれはそうだったろう。

バグダッドで10年間の休暇を過ごしてきた人々だけが知らない:ジョーダンが幸福な学生生活をしのぶためにブルズのユニフォームの下に履いているカロライナブルーのショーツのことを:チャペルヒルや故郷のウィルミントンへ帰ったとき、あるいは土星の輪でも他のどこでも自分の望む場所で、自由にピックアップゲームに参加できる『ゲームへの愛』の契約条項を:彼の人なつこさと、無邪気な親しみやすさを。「マイクは公園にやって来てプレーするよ」と、高校時代のチームメイトで、現在はロサンゼルスのスポーツグッズ・メーカーで外交員をしているリロイ・スミスは言う。

スミスはバスケットボールの話だけをしているのではない。ジョーダンはいつでも人々とプレーして、議論して、おしゃべりして、ふざけて、仲間に加わって、結びついてきた。「時々、本当にあの男と同じチームにいたことが信じられなくなる」とスミスは言う。「だけど、当然ながら僕らはみんなそうだった -- それとも、彼に似た誰かと一緒だったのか。僕は今でも彼に会う。そして、あいつはまだ、ただの・・・マイクなんだ」

マイク? 結局、ゲータレイドがそのタグを考え出したわけではなかった。彼が1年生のとき、ノースカロライナ大学スポーツ情報ディレクターのリック・ブルーワーが、そちらの方が響きが良いと思っただけの理由で、ジョーダンの名前をマイケルに変えたのだ。けれども、もしこの響きが新手のコマーシャル契約のように聞こえるなら、それは初期のJordanianaをふるいにかけることが、真実と公正とアメリカ方式についての長い説教しか引き出さないからである。長年ずっと、ジョーダンはピーターパンからビル・コスビーまで、紛れもない夢のヒーロー同盟と比較されてきた。しかしながら、実のところジョーダンは要するに、惜しまれて終了したテレビコメディー『ハッピー・デイズ』のリッチー(※純情な男子高校生)とフォンズ(※魅力的な不良)の結合体なのだ:もし番組が本当にマイノリティーの登場人物を主役にしていたら、その人間はマイクのようだったろう。

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2005年10月10日

Sports Illustrated(6)

<そのころ>
NBAキャリアの最初の6シーズンで、ジョーダンはすでに、新人王、MVP、4度の得点王をディスプレイに並べていた -- ファンからの数えきれないオ〜やア〜は言うまでもなく。しかし、1度も優勝できなかったことが彼に付きまとう。ジョーダンのプレーは普遍的な絶讃を博したものの、多くの人が警告を追加した:「もちろん、チャンピオンにならなければ、彼が史上最高と考えられることもない」

ジョーダンは少しずつ近づいていった。1989年、ブルズはイースタン・カンファレンス決勝で、デトロイト・ピストンズと6試合戦った。翌シーズンには、バッドボーイズを第7戦まで追いつめた。そして90−91シーズン、彼らは最終ステップにかかる。マイケルの1試合平均31.5得点に支えられて、シカゴは61勝21敗をマークし、ポストシーズンではわずか2敗しかせず、ファイナルでマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズに4勝1敗で勝ち、頂点に到達した。ジョーダンは頭痛の種を取り除き、その業績によって、ジャック・マッカラムが記録にとどめるように、SIのスポーツマン・オブ・ジ・イヤーに選ばれた。

【THE VIEW FROM THE TOP】

SI911223 1991年12月23日号掲載

SIの1991年スポーツマン・オブ・ジ・イヤーは、自分が途方もなく支払われる国際的アイコンであることに加えて、疑いもなく、世界最高のバスケットボール・プレーヤーであることを証明した。

BY JACK McCALLUM

比較的若い28歳という年齢で、彼はひとり山頂に立っている。紛れもなく、惑星上で最も有名なアスリート。そして、いかなる立場であっても、最も有名な市民の1人。私たちは何度もそう耳にして、今それは陳腐な決まり文句だけれど、間違いのないことが1つ:彼はスポーツを超越した。自宅のドレッサーの上に優勝リングを置いている彼だが、もしブルズが(今週末で18勝3敗)シーズンの今後6ヶ月間を最初の2ヶ月のようにプレーしたら、もう1つのリングのために場所を空けることだろう。2度のMVP受賞者、先月のマジック・ジョンソンの引退前でも、彼はおそらく世界最高のプレーヤーだった。しかし今、そのテーマは討議する価値さえない。

彼は1992年に約2500万ドルの収入を得るだろう。そのうち本業からの収入は、わずか380万ドル -- 洪水のような広告契約から、残りの驚くべき2120万ドル。その名前と顔は、一部のアイテムを挙げるだけでも、スニーカーに、サンドイッチに、ソフトドリンクに、シリアルの箱に、付いている。美しい愛妻と、2人の可愛い息子と、非常に親密な関係の両親がいて、愚かなホームコメディには無縁だ。左膝の腱炎と骨棘にはいくらか悩まされるが、それ以外は見事に健康である。時々、ティーのトラブルを抱えているが、ハンディキャップはシングルのままだし、プロの個人教授はいくらでも呼び出し放題。

したがって、少数の美的欠点 -- はげに近い頭、やせっぽちの脚、長すぎるバスケットボール・トランクスと継続的に舌を突き出す癖 -- にもかかわらず、我々はマイケル・ジェフリー・ジョーダンを1991年のスポーツマン・オブ・ジ・イヤーとして称える。

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2005年09月25日

Sports Illustrated(5)

CHAPTER 2 : THE REIGN
【THE PRICE OF GLORY】

3度の優勝を遂げて、MJはついにNBAの王位に就く。しかしそれは、新たな中傷者と新たな要求を生み出した。

BY JACK MAcCALLUM

crying

彼がリーグを興奮させるようになってからの長い7シーズンの後、1991年6月にマイケル・ジョーダンが初めてNBAチャンピオンシップをさらったとき、私たちは彼のリアクションの激しさに驚いた。ロサンゼルスで優勝を決定するゲーム5が終わり、ジョーダンにファイナルMVPのトロフィーが贈呈された直後、彼は父親ジェームズの腕の中で、抑えきれずに泣きじゃくり始めたのだ。それまで私たちは、マイケルがいつもの素晴らしいチャームで優勝の栄冠を受け取るだろうと想像していた。彼が卒業式の女学生のように泣き崩れたとき初めて、私たちはジョーダンが、マジックやラリーの「チームメイト全員を向上させる」能力を持っていないという囁きのすべてを確かに心のどこかに抱き、唯一チャンピオンシップだけがそれらの疑いを追い払うだろうと、実際、不安な時々を隠していたことを知ったのだ。

しかしながら、初めてのタイトルはジョーダンの偉大さを証明したが、彼に対する大衆の認識の微妙な変化を示唆するようにも思われた。それはまるで、男がついにすべてを所有した今は、その一部を取り上げ始める時でもあるかのようだった。最初の優勝シーズンから間もなく、ブルズの舞台裏を観察した『ザ・ジョーダン・ルールズ』が出版され、その異常な競争本能によってチームメイトや対戦相手にかなりの屈辱をもたらしていた、不作法で無慈悲なジョーダンの姿をあからさまにした。それに続いて、ジョーダンのギャンブル問題についてのレポート。女遊びが結婚生活を傷つけていたというほのめかし。「マイクのように」のイメージは、彼のおびただしいスポンサーが生み出したでっち上げだという告発。

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2005年09月19日

Sports Illustrated(4)

<そのころ>
ジョーダンが加わってから、シカゴは4シーズン連続でプレーオフに進出、1988年には第2ラウンドへ進んだ。けれども、5年目のシーズンを迎えて、事態は翳りを見せる:もう1つのチームが、NBAの新興勢力として、シカゴをしのぐ運命にあるように見えたのだ。オールスターセンター、ブラッド・ドアティーを擁する1988−89シーズンのクリーブランド・キャバリアーズは、ブルズを10勝上回る57勝25敗の好成績を上げ、レギュラーシーズンの対戦でもシカゴに6戦全勝した。確かに、クリーブランドの躍進は、マジック・ジョンソンのようなオーソリティーによる喧伝に劣らなかった。ジョンソン曰く、キャブスは -- ブルズではなく -- 90年代のチーム。

1989年のプレーオフ第1ラウンドは、これら新進強豪チーム同士の直接対決になった。結局、この忘れ難いシリーズは、1つのショットで幕を閉じる。双方のフランチャイズの運命を決した1ショット。ジョーダンを初めてのカンファレンス・ファイナルへ進ませるだろう1ショット。マイケルの神話に新たな一章を加えるだろう1ショットで。

【THE SHOT HEARD ROUND THE WORLD】

SI_890515 1989年5月15日号に掲載

1989年プレーオフの1本のシュートで、マイケルはクリーブランド・キャバリアーズを撃ち倒し、未来は目前にあると宣言した。

BY JACK McCALLUM

ひょっとして、あの十代の少年は、後で何か大きなことが起こるのを感づいていたのだろうか。いずれにせよ、マイケル・ジョーダンがクリーブランド郊外のホテルで、日曜日の遅い朝食を済ませた直後、驚いたことにその若者は、ジョーダンのフォークを奪おうとダッシュしたのだ。

「見ろよ!」と彼は叫んだ。「マイケル・ジョーダンのフォークだ!」若者はそれを友人たちに向けて振り回した。「マイケル・ジョーダンがこのフォークを使ったんだぜ」それから彼は、そっと周囲の様子をうかがい、「いただき」とポケットにフォークを差して、レストランから出て行った。

もしもそのフォークが、7時間後にリッチフィールド・コロシアムのスーベニアショップに並んでいたら、キャバリアーズのファンでさえ、大金を払ったかもしれない。シカゴがキャブスと対戦したイースタンカンファレンス1回戦の第5ゲームかつ最終戦は、劇的な方法で勝つマイケル・ジョーダンのものであり、また、それはまさに劇的な勝利そのものだった。シカゴが1点を追う場面、時計はたった残り3秒。アリーナの全員が、クライマックスでの彼のやり方も、彼がシュートすることも知っている中で、彼がそれを取りに行くと誰もが知っていたインバウンズパスを、ジョーダンがキャッチする。困難の度合いを上げたのは、ほんの一瞬、右サイドからジョーダンの視野をさえぎった6フィート7インチのディフェンダー、クレイグ・イーローの素早い影だった。問題はない。ジョーダンはダブルクラッチして、完璧な回転の18フィートのショットを放った。それはリムの奥に当たり、そして入った。彼の43点目と44点目は、ブルズに101−100の勝利をもたらした。

「不、可、解」キャブスのセンター、ブラッド・ドアティーはそう強調した。「ただ不可解」ノースカロライナで2年間ジョーダンと共にプレーして、確実に数々の不可解な事態を目にしてきた男からの言葉。さらに驚くべきことは、ジョーダンがその前にもクラッチ・シュートを決めていたという事実だ。残り6秒の場面で、6フィート10インチのラリー・ナンスが伸ばした手の上を超える12フィートのジャンパー。それはブルズに99−98の瞬間的なリードを与えていた。

「マイケル・ジョーダン・・・スーパースター」後からそのゲームを分析しようとして、ナンスは言った。口数の少ない男は、短い言葉ですべてを言い表わした。

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2005年09月05日

Sports Illustrated(3)

<そのころ>
1983−84シーズンのたった27勝という成績は、シカゴ・ブルズに84年のドラフト3位指名権をもたらした。チームは、2年前のNCAAファイナルでウィニングショットを決めて一躍有名になったマイケル・ジョーダンを指名する。2年連続NCAAプレイヤー・オブ・ジ・イヤーに選ばれていたジョーダンは、もはや大学レベルで証明するものは何もないという状態で、ノースカロライナでの4年目のシーズンをパスして、NBAドラフトに参加していた。

1984年のロサンゼルス五輪でアメリカチームを金メダルへ導いた3ヶ月後、21歳のジョーダンはワシントン・ブレッツを相手に、16得点、7アシスト、6リバウンド、4ブロックというプロデビューを果たす。84年12月、SIのアレクサンダー・ウォルフは、ブルズのフランチャイズを活気づけ、NBA周辺にかなりの物議をかもしている野心的なルーキーをチェックした。


【OFF ON A WILD RIDE】

SI_841210 1984年12月10日号に掲載

オスカー・ロバートソン以来見られない多彩な能力を披露して、シカゴのルーキーはたちまちNBAの新しい推進力としての地位を確立した。

BY ALEXANDER WOLFF

それはまるで、彼がジム・マッケイ(※著名なスポーツ・アナ)抜きで自分だけの閉会式を行うためにオリンピック開催都市へ戻ったかのようだった。なぜなら、マイケル・ジョーダンがこれまでのルーキー・シーズンに行ってきた、あらゆる並外れたこと -- アリーナを満員にし、瀕死のフランチャイズを上昇させ、NBAのベストプレーヤーの何人かに向けて舌を出す -- の中でも、去る11月30日金曜日の夜、ブルズがロサンゼルス・クリッパーズを104−100で降したゲームの最終盤でやってのけたことは、例えるものがないほどだったから。

ゲーム最初の2回のバスケットも十分目覚ましいものだった:右と見せて左に切り返し、再び右のレーンから、6フィート11インチのビル・ウォルトンを越える高いバンクショット。続けて、ベースライン際に立ちふさがるノーム・ニクソンをかわし、バスケット裏から肩ごしに左手でのシュート。

しかし、時々フォワードにポジションを変える6フィート6インチのジョーダンは、ゲーム終盤でさらに鮮烈なプレーを見せた。まず、スコアを100−100にする18フィートのベースライン・ジャンパーを決めた後、シカゴにとどめを刺そうとするクリッパーズの最後のポゼッションで、ボールをスティールして速攻に持ち込み、ほとんどありそうもないスクープ・レイアップを投げ入れたのだ。ロサンゼルスのガード、デレク・スミスが、すでに背後からジョーダンを手荒く抱え込んでいたため、2人は一緒にレーンを斜めに突っ切った。それでもジョーダンは、何とか腕の自由を保ち、緩やかな放物線でボールを上方へ浮かせる。それはグラスをかすめ、ネットを通って落ちた。(※これですね

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2005年08月23日

Sports Illustrated(2)

CHAPTER 1: THE RISE
【LOOK OF A WINNER】

初期のジョーダンはリングマスターというよりアクロバットと思われていたが、すぐにもゲームを支配するだろうチャンピオンの兆候は明らかだった。

BY ALEXANDER WOLFF

彼を忘れたかのように、マイケル・ジョーダンのことを考えてほしい。無冠の、優勝前の、タイトルのないジョーダンを。プロとして最初の6シーズンは、幾人かのNBA闘牛士に征服された雄牛(ブルズ)と共に終わった。その当時は、突き出た舌も取るに足りない小児のチック症状に見え、四肢には、いずれそうなるだろう彫りも輪郭もなく、いまだ思春期のか細さ。暗くて隙間風の入るシカゴ・スタジアムで、4人のコーチのためにプレーする彼は、まだ時々、いつかエア・ジョーダンの曲芸や魔術を模写できるようにと願う世界中の子供たちの1人のように見えた。

実際には、すでに彼はタイトルを手にしていたのだが:ノースカロライナ大学の1年生として1982年に勝ち取ったNCAAチャンピオンシップを。ターヒールズをその王座に就かせたプレーは、より高いレベルのタイトルが彼を待ち受けていると我々に知らしめたはずだった。ニューオーリンズで行われた決勝戦の遅いタイムアウトのハドルで、ディーン・スミスコーチは19歳のジョーダンの方を向き、キーの左サイドからのジャンプショットをコールして、「ぶちかませ」と命じたのだから。もちろん、ジョーダンはやってのけた。けれども、その当時の彼は、スミスのマシーンの単なる1つの歯車、カロライナのカースト制度における不可触賤民、すべてのターヒールズ1年生のように、遠征では重いフィルムプロジェクターを運ぶように命じられる男でしかないように思われていた。

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2005年08月20日

Sports Illustrated(1)

99年の引退会見直後、他では見られないグラビア目当てにスポーツ・イラストレーテッドの引退特別号を買いました。
私は中1の2学期くらいから出来る限り英語を避けて通ってきた人間なので、読もうなんて大それたことは考えていなかったけど(笑)、だんだん眺めるだけではもったいなくなり、再々引退後に少しずつ解読を始めたんです。
・・・まったく、翻訳より解読という感じ。(^_^;
でも、過去のスポイラから厳選された記事ばかりなので、さすがに面白くて、日本語にするのも楽しかった。
自分のために訳したものですが、順々に載せてみようと思います。でも、ホント英語は苦手なので、自分の訳が合っているか間違っているか自己判断できないことをご了解ください。


Sports Illustrated PRESENTS
MICHAEL JORDAN A TRIBUTE

――A tribute to Michael Jordan, including the best stories from the archives of SPORTS ILLUSTRATED

INTRODUCTION
【A MAN FOR HIS TIME】

それは、人種、文化、国籍を超えたメディア受けの良いスーパースターの出現に絶好のタイミングだった -- そして、マイケル・ジョーダンはその役割にうってつけだった。

BY FRANK DEFORD

我々がその意義を誇張している可能性は認めても、最も忘れがたいアスリートたちがそれぞれの時代を映しているのはめずらしいことではない。間違いなく、ベーブは狂騒の1920年代と共にあった。ちょうど、ジャッキー・ロビンソンが第二次世界大戦後の大きな社会の前進を完璧に体現し、アリとビリー・ジーンが彼らの時代の混乱を象徴しているように。同じく、マイケル・ジョーダンはただバスケットボール選手として非凡なだけではない。彼はまた、現代の我々にとって適切で、うってつけのアスリートだった。この、アメリカ合衆国が唯一の超大国であるだけでなく、文化的にも世界を支配する、比較的平穏な、すっかり豊かになった世紀末にとって。

すでにジョーダンは、アスリートであるのと同じほどカルチャー的な象徴ではないか? 例えば数年前、中国の学生たちによる「世界で最も偉大な人物」の投票で、彼は周恩来と同順位だった。今日では、背が高く、肌が黒く、頭を剃った青年が、地球上で最も知られた顔になったことも無邪気に受け入れられる。ダイアナ妃の死去に伴い、ノースカロライナ州ウィルミントン出身のマイケル・ジェフリー・ジョーダンは、確実にあちこちで見聞きする存在、人間ハードロックカフェTシャツ、世界一の有名人になった。

けれども、もしジョーダンがプレーしたアメリカンスポーツ(わずか100年の歴史の)が、彼の登場したまさにその時期に、アメリカ国内のフットボールや野球、他国のサッカーに挑むほど台頭していなければ、彼の世界的な名声は -- そして個人的な資産も -- 得られたはずがないことは教訓的である。ジョーダンが現代の他の誰かに最も似ているとしたら、それは恐らく、ほんの昔には存在さえしなかったビジネスと企業体としての富で世界のトップに登り詰めたビル・ゲイツであろう。

このような名声は批判も呼んだ。いまだに、ジム・ブラウンやしつこい反ナイキ狂信者のような人々から彼に向けられる非難の大半が、アスリートとしてや個人にではなく、ビジネスマンとしてのジョーダンに関係するのは、好況時代 -- マイケル・ジョーダン時代 -- ゆえである。このジョーダンは、あまりにも貪欲で、社会的責任に欠ける巨大複合企業だと彼らは言う。ジョーダンはなぜ、クリスマスの七面鳥を配るなりして、もっとスラム街で時間を過ごさないのか? 奇妙にも、今までにラリー・バードがアパラチアで援助活動をして休日を過ごさなかったと厳しく批判した人間は1人もいない。

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posted by まき at 22:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 99SI | 更新情報をチェックする
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